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『海辺へ行く道』シーサイド・セレンディピティ、人生の響き合いに向けられた讃歌

©2025映画「海辺へ行く道」製作委員会

『海辺へ行く道』シーサイド・セレンディピティ、人生の響き合いに向けられた讃歌

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触れる/触れられない



 『海辺へ行く道』には、手で直接“触れる”という行為が繰り返し描かれている。良一は学校の美術展にスプーン曲げによって曲げられた残骸のオブジェを出品する。オブジェに触れることを許可された来場者の少年は、触った瞬間に不吉な響きを感じ取り、どこかに逃げ去ってしまう。奏介はさすらいの美術商A氏(諏訪敦彦)が所持している絵巻物に直接手で触れる。美術部の先輩テルオ(蒼井旬)は、声を失い衰弱した老婆に特殊メイクした肌を触れられる。


 テルオが言うように、アート作品をつくる少年たちにとって、“触れる”という行為は物質の成り立ちを知り、別のモノでそれを表現するためのプロセスである。しかし同時にその行為は、“触れられない”ことを意味している。手で触れた瞬間に、触覚で得たイメージは別のものへと変化していく。物質に宿っていた“物語”に、複数の枝葉、個人の解釈が生まれていく。模倣と再現性。本質を表現するための探究。A氏の言うところの、優れたアート作品が持っている「対話」。少年たちが手で直接モノに“触れる”行為は、劇中で言及される「ミメーシス」の概念をなぞる行為であり、それは最終的に“触れられない”イメージとして昇華されていく。良一にとってのヨーコがそうだったように、そよ風のように過ぎ去っていくからこそ、そのイメージは美しくなる。永遠に“触れられない”からこそ、美しくなる。この映画は、そこに私たちの人生を豊かにする“響き合い”の可能性を見出している。



『海辺へ行く道』©2025映画「海辺へ行く道」製作委員会


 そしてこの映画には忘れがたい数々の“パフォーマー”がいる。“パフォーマー”を詐欺師、手品師、あるいは胡散臭い大人と言い換えてもよいだろう。横浜聡子による極めて映画的な選択といえる。ジョルジュ・メリエスのサイレント映画の時代から、映画とは騙し絵のような手品であり、ファンタジーであり、奇術師、何より“パフォーマー”=俳優の歴史でもある。パフォーマンスによる説得力。不良品の包丁を主婦たちに売りつける高岡は、コミカルで美しいパフォーマンスによって信頼を得ることに成功する(寿美子は高岡のことをアートだと称賛する)。テルオと老婆のシーンは、ベッドに横たわる声を失った老婆を俯瞰気味に捉えるショット自体がサイレント映画的な雰囲気に溢れている。テルオは読唇術や特殊メイクといったアナログな“技術”によって老婆に対峙する。そしてこの上なく美しい“静か踊り”のシーン。この町の住人全体による不可思議なパフォーマンス。無音で延々に踊り続ける盆踊りは、アナーキーなファンタジーのようですらある。“静か踊り”は白い歯を見せたら失格になるというルールだが、監視員の笛の音は拍子抜けするほど弱々しく、どこまでもやさしい。




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