シーサイド・セレンディピティ
『海辺へ行く道』は、坂道を歩く黒猫のショットから始まる。寿美子と奏介の家に居ついている猫。原作では自分の肉球に絵の具で色を塗っていたチャーミングな猫だ。この島に寄りつく人には、猫のような気まぐれ性がある。夏の間だけ海辺でランチを販売している静香(坂井真紀)のように。ニュートラルな猫。この町に起こる数奇な出来事をジャッジすることなく佇んでいる猫。いわばこの島の、この映画のマスコットだ。道を歩く人々は、この猫に勝手に名前をつけることだろう。それはアートの制作に打ち込む子供たち=名もなきアーティストたちの姿と共鳴している。この映画自体が、いわば“名もなき猫たちの奏でる交響曲”だ。ガラクタが拾い集められたアトリエで、テルオが主張する。すべてのアーティストは「自称」であるべきなのだと。人に認められるためにモノを作っているのではない。作りたいから作っているのだと。
『海辺へ行く道』©2025映画「海辺へ行く道」製作委員会
それはどのように見えるのか?本作はモノの見え方、対象への角度に関する問いを投げかけている。中学生新聞を作っている平井ほのか(山崎七海)は、炎天下の海沿いで痴呆症改善プログラムを行うケアマネージャーの女性の姿を盗撮する。このケアマネージャーは、新しい取り組みをしている人のようにTVに紹介されていたことがある。楽しそうに童謡を歌っている老人たち。少女がケアマネージャーの行為に疑問を抱いたのは明らかだが、それでも彼女はプログラムの是非をジャッジする前に、まず中立的な立場からケアマネージャーに取材を申し込みたかった。彼女には冷静なジャーナリストの視点がある。そこにある様々な“見え方”を知りたいと思っている。しかし動画がSNSに拡散されたことで、ケアマネージャーは社会的な制裁を受けてしまう。このプログラムは老人たちへの“虐待行為”だと断罪される。あらゆる背景、成り立ちが、SNSの“大きな声”により一瞬でかき消されてしまう。少女は動画を拡散させた教師に激しい嫌悪感を抱く。「正義だってさ、気持ち悪い!」。子供たちの視点が強い輪郭で描かれていることは何より尊い。
『海辺へ行く道』は響き合いの映画であり、未来の幸運を見つける“可能性”に関する映画だ。この映画はあらゆる子供たちの天才性を信じている。思いがけない偶然から価値を発見をする能力=セレンディピティをどこまでも信じている。それはかつて天才=子供だった大人たちの姿と響き合う。子供たちの想像力は、どんなところにだって行けるはずだ。シーサイド・セレンディピティ。私たちは未来の欠片をかき集める。すべてが天国のように見える、見晴らしのよい町で。
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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『海辺へ行く道』
ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿ピカデリーほか絶賛公開中
配給:東京テアトル、ヨアケ
©2025映画「海辺へ行く道」製作委員会