2025.09.17
人形劇=断絶と再接続のメタファー
ジェーンは人形をパートナーと呼び、さらには自分の分身であるとまで語る。その人形劇は、操演者が内部に入り込んで人形を動かすという、きわめて特殊な形式だ。『ディストラクション・ベイビーズ』の泰良が見えざる衝動に突き動かされていたように、この人形もまた“不可視の力”によって操られていることを表象しているのだろうか。となればこの映画は、とことん暴力と断絶を描いた作品ということになる。ヘビーにもほどがある!
個人的には、どうしてもそのような解釈を受け入れることができない。むしろ筆者は、真利子監督は「人形に希望の光を象徴させている」という立場をとりたいと思う。それは、言葉では届かない領域で、失われたコミュニケーションを回復しようとする試みではないだろうか。
夫婦が交わす言語は母語ではなく英語であり、その不自由さが常に誤解と断絶を生んでいる。その行き詰まりの代替として提示されるのが、非言語的な人形劇と考えたらどうだろう。人形は言葉を持たないがゆえに、表情や動作によってダイレクトに感情を伝えることができる。言葉を介するよりも親密で、根源的なコミュニケーションをとることができる。
『Dear Stranger/ディア・ストレンジャー』©Roji Films, TOEI COMPANY, LTD.
この視点から見ると、人形劇は断絶のメタファーであると同時に、再接続のメタファーとしても立ち上がってくる。賢治とジェーンの出会いの場が、かつて人形劇が演じられていた劇場であることは示唆的だ。すでに廃墟と化している劇場に賢治が何度となく足を運ぶのは、神によって打ち砕かれたバベルの塔としてのその空間に、言語を超えたコミュニケーションの可能性を感じているから。瓦解した言語空間を補うかのように、人と人とを再び結び直す媒介として、人形劇が機能している。
『Dear Stranger/ディア・ストレンジャー』は、真利子監督のテーマである暴力を変奏するだけでなく、コミュニケーションの代替をも提示する。肉体的な暴力の不在は沈黙や誤解という不可視の暴力を生むが、その一方で言語を超えるコミュニケーションの可能性もまた、非言語的表現の中に息づいている。この映画が描いているのは、まさにその両義性──暴力と癒やし、断絶と再接続を同時に孕む場としての人形劇なのである。
『ディストラクション・ベイビーズ』が拳によって衝動的な暴力を描き、『宮本から君へ』が肉体を賭した衝突を通して人間の限界をさらけ出したのに対し、『Dear Stranger/ディア・ストレンジャー』は暴力を描かずに暴力を語り、その射程は殴打や流血ではなく、言語の不一致や沈黙といった不可視の暴力へと拡張されている。しかもその眼差しは、断絶を超えてなお人と人がつながろうとする可能性にも注がれている。
そんなの、どう考えたって希望の映画でしかない。そう、この映画で真利子哲也監督が見せてくれるのは、瓦礫の山となったバベルの塔に無数の柔らかな光が降り注ぐような光景なのである。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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『Dear Stranger/ディア・ストレンジャー』
全国絶賛上映中
配給:東映
©Roji Films, TOEI COMPANY, LTD.