2025.10.02
トランスジェンダーとしての視点から見えるもの
この映画のシェーンブルン監督がトランスジェンダーであることを、私は観賞後にようやく知った。なるほど、その文脈で捉えると、アイデンティティを必死に模索する主人公らは、まさに同様の思いを抱えて大人になった監督の、分身とも言える存在だろう。
ただし、本作はカミングアウトが主題ではないように思う。むしろそれ以前の、自分が何者なのかまだ答えが見つからず、この漠然とした違和感の中で手探りを続ける過程にこそ、ミステリーがあり、ドラマがある。
当時は90年代。周囲が性的マイノリティに対して生きやすさの助言や支援を与えてくれる機会はまだ少なかった。そんな中で二人の目には「ピンク・オペーク」だけが不思議な光を放っている。同番組がそういった内容を意図しているのかどうかはわからないが、少なくとも彼らにとって、学校や家庭以上に、掛け替えのない安らぎと救済の場所だった。
しかしその場所は永遠ではない。本作では中盤に決定的な「分岐点」が示され、「私は女の子が好き」と打ち明けるマディは、「あんたは?」とオーウェンに問う。彼は自分でも無自覚なままに「僕はTV番組が好き」と曖昧な答えを返してしまう。その上、「私はこの街を出る。一緒に行こう」と言うマディを半ば裏切る形で、オーウェンはこの牢獄のような街に留まり続ける。何十年もずっと。
オーウェンが「本当の自分」を見つけ、受け入れるチャンスは人生において何度かあったのだろう。行動派のマディは進むべき道を見つけて巣立っていった。しかしオーウェンは何も受け入れきれぬまま、ただこの街で全てを終えようとしている。今の彼の心境を言い表すならば、最終回で生き埋めにされてしまう「ピンク・オペーク」の主人公そのものだろう。
『テレビの中に入りたい』© 2023 PINK OPAQUE RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
加えて、本作には興味深い描写がある。時は移り変わり、オーウェンが試しにストリーミングサービスで「ピンク・オペーク」のエピソードを再生視聴してみても、あの頃に感じたゾクゾクするほどのリアルさは一切蘇ってこないのだ。
これは映画やドラマ、音楽などのカルチャー体験が生モノであり、とりわけ思春期における遭遇と共鳴がいかに一期一会であるかを痛感させられる場面だ。今この瞬間の心と体の状態を通り過ぎると、その関係性は全くの別物へと変移してしまう。魔法は死んだ。安らぎはもう二度と戻らない。
まるでデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」をも彷彿とさせるような不条理な彷徨いの果て、主人公がついに迎える謎めいた結末もまた、観る人によって様々な解釈や受け取り方を生みそうだ。
セクシャリティの垣根を超えて幅広い観客の心を震わす秀作
かくも『テレビの中に入りたい』は、シェーンブルンにしか描き得ないビジョンを寓話的に織り込んだ作品である。この点において直接的な共感を抱く人も多いはず。
他方、たとえ己の価値観やセクシャリティがオーウェンやマディとは異なっていたとしても、ここで描かれる強烈な感情のあり方や90年代のポップカルチャーが放つノスタルジーには、幅広い観客層を引き込む力がある。
とりわけ冒頭に挙げた「思春期ならではの違和感」という面で、これほど言葉や論理を超越して切実に訴えかけてくる例も珍しい。メタファーや時間の速度を巧みに操りながら感情のうごめきを豊かに捉えた本作は、極めて稀有なクオリティを持った青春映画の秀作と言えるのではないだろうか。
1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。
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『テレビの中に入りたい』
ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー中
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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