歌と色彩の輪舞(ロンド)
すべての台詞があらかじめ歌になっているという前代未聞の実験。当初ジャック・ドゥミとミシェル・ルグランは、台詞と歌を行き交う従来のミュージカル映画の方式を探っていた。しかし台詞と歌のつなぎ目、移行に不自然さを感じたことから、思い切って全ての台詞を歌にすることを決意する。ジュヌヴィエーヴを演じた新人時代のカトリーヌ・ドヌーヴは、この野心的な実験に非常に乗り気であり、歌のレコーディングの際、歌い手に演技の抑揚に関するアドバイスしている。この映画に大げさな演技はない。登場人物が力強く歌い上げるようなシーンもない。自動車修理工場で働くギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)の同僚の台詞は、『シェルブールの雨傘』の歌唱のトーンそのものに関する言及といえる。「オペラは嫌いだ。映画がいい」。ミシェル・ルグランが語っているように、この映画で披露される歌唱は、レストランで「アップルパイをください」という言葉に軽いメロディにつけるような、ごく日常的なトーンで統一されている。話し言葉と歌の中間にある発声。何でもない言葉の語尾を遊び心でメロディアスに言い放つような、親しみやすい無邪気なトーンがある。
同じように、俳優は音楽の操り人形ではない。俳優は完成された音楽に同期するように動くが、不思議なことにすべての登場人物、特に女性キャラクターたちの表情にはドキュメンタリー的な親密さが生まれている。小市民的なギイとの結婚に反対し、宝石商のローラン(マルク・ミシェル)との結婚を娘のジュヌヴィエーヴに勧める母親エムリー。彼女を演じるアンヌ・ヴェルノンの演技には、子供への支配と愛情のどちらも感じることができる。エムリーにはジュヌヴィエーヴと同じような恋愛の経験がある。同じような経験が別の登場人物によって繰り返されるのは、ジャック・ドゥミが執着する“輪舞(ロンド)”、あるいは“変奏”のテーマでもある。
『シェルブールの雨傘』(c)Photofest / Getty Images
シングルマザーのエムリーは、ジュヌヴィエーヴに貧しく辛い人生を送ってほしくない。ギイの子供を妊娠しているジュヌヴィエーヴを、思わず抱き寄せるエムリーの姿に母親の“真実”が浮かび上がっている。また、ギイへの思いを隠しているマドレーヌ(エレン・ファルナー)にも同じことがいえる。自身の望む恋愛に“参加”できずにいるマドレーヌは、ギイへの気持ちを隠し続けている。ジュヌヴィエーヴとギイの周囲にいる2人の女性は秘密を抱えている。秘密は表情と仕草、役割によって隠されている。どこかで誰かが幸せになれば、誰かが悲しみを隠している。その逆も然り。全員が同じ気持ちになることはない。それが人生の色彩、コントラストなのだと、この映画は歌で彩っている。
音楽と共に色彩は本作の最も重要な要素だ。美しい衣装を手掛けたジャクリーヌ・モローと美術のベルナール・エヴァンの功績は計り知れない。この映画では部屋の壁紙に多くの予算がかけられている(狂っていると言われたそうだ)。ここでは色彩に関する2つの重要なシーンを挙げたい。1つはアルジェリア戦争に徴兵されたギイから、ようやく手紙が届くシーン。白いカーディガンを纏ったジュヌヴィエーヴは、雪の降る日に白で統一された窓辺で手紙を読む。このとき白は“喜び”の色として、ジュヌヴィエーヴと共に光り輝く。しかしギイの手紙の内容には、戦場の過酷な状況が詩のような言葉で綴られている。「(戦場では)太陽と死は近い」。ジャック・ドゥミは白という色彩を望外の“喜び”として表現しつつ、そこに二重のイメージを重ねている。それは“幸せすぎて怖くなる”というジュヌヴィエーヴ、そして物語の後半にマドレーヌが陥ってしまう感情と見事に重なっている。ウエディングドレスの白、雪の白、この映画の白は常に両義的に表現されている。
もう一つはジュヌヴィエーヴの纏う花が描かれた青いワンピースが、部屋の壁紙と完全に一致するシーンだ。このときジュヌヴィエーヴは、ローランとの結婚を選択することによって、部屋=母親の支配や望みに従属する。こういった演出は、たとえばソフィア・コッポラが『マリー・アントワネット』(06)でヴェルサイユ宮殿の壁紙と主人公の纏う衣装を一致させ、“囚われの女”としての悲劇を予兆させたように、脈々と後世に受け継がれている。