1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. シェルブールの雨傘
  4. 『シェルブールの雨傘』ジャック・ドゥミの幸福論、人生における音楽と色彩の輪舞(ロンド)
『シェルブールの雨傘』ジャック・ドゥミの幸福論、人生における音楽と色彩の輪舞(ロンド)

©Ciné-Tamaris 1993

『シェルブールの雨傘』ジャック・ドゥミの幸福論、人生における音楽と色彩の輪舞(ロンド)

PAGES


ジャック・ドゥミの幸福論



 『シェルブールの雨傘』の悲劇的側面について、ジャック・ドゥミは人生の“皮肉”や“諦念”を表現しようとしたわけではないと語っている。たしかに本作は年齢を重ねれば重ねるほど見え方が変わってくる(しかしジャック・ドゥミが本作を撮ったとき、まだ30代前半の若さだったという驚き!)。アルジェリア戦争に引き裂かれる若い恋人たち。ローランとの結婚を推し進めた母親のエムリーをこの映画は責めない。ギイを待てず、ローランと結婚することを決めたジュヌヴィエーヴの選択をこの映画は批難しない。大らかなジャック・ドゥミは、“すれ違い”を積極的に肯定する。それはむしろ“出会い”であり、“始まり”なのだと肯定する。ジャック・ドゥミによる幸福論。『シェルブールの雨傘』に一番近いのは、パートナーであり偉大な映画作家でもあるアニエス・ヴァルダの傑作『幸福』(65)なのではないかと筆者は感じ始めている。



『シェルブールの雨傘』(c)Photofest / Getty Images


 ジャック・ドゥミとアニエス・ヴァルダは、制作の姿勢から映画の美学に至るまでまったく異なる映画を撮っており、ジャック・ドゥミの最晩年を除き、お互いの仕事に干渉しなかったことが知られている。アニエス・ヴァルダは、幸福の概念について質問されたインタビューで興味深い回答を残している。幸福の要素をたくさん持っているように見えるのに、幸せでない人々がいる。幸福の要素がほとんどないように見えるのに、幸せを感じている人々がいる。若い頃のアニエス・ヴァルダは、幸福とは贈り物であり、健康のことであり、生きる喜びを発見する能力のことではないかと問いかけている。この意見は、“幸せであることの恐怖”を描いた『シェルブールの雨傘』にそのまま当てはまる。『ローラ』において、ヒロインへの失恋に打ちひしがれていたローランが、『シェルブールの雨傘』でジュヌヴィエーヴと出会えたように。長らく片思いに耐えていたマドレーヌが、ついにギイと結ばれたように。あるいは宝石商のローランに王冠を被せられたジュヌヴィエーヴが、その美しさに魔法がかかるにも関わらず、幸せな表情を曇らせていったように。『シェルブールの雨傘』においては、視点のスケールを変えたときに、幸福と不幸が両義的で流動的なものとなる。そして小さな生活の中に愛や望みを発見していくこと。つまりそれぞれの主観こそが、幸せを見つける“能力”であり、新たな“始まり”となる。幸福を強く望む人々のための輪舞(ロンド)。この映画はシェルブールという町に生きる人々全体、映画全体のスケールで、“幸福とは何か?”を問いかけている。


 『シェルブールの雨傘』において色彩や音楽は、登場人物の主観的な喜びと反射している。ジャック・ドゥミはそれぞれの主観をかけがえのないものとすること、すべてを肯定することで、何より人々の存在の強さを浮かび上がらせる。シェルブールの町に住む人々が奏でる、幸せの希求に関する交響楽。どれだけカメラがこの町の風景から遠ざかっていっても、望み続ける人々の存在の強さは消え去ることがない。この永遠に色褪せない傑作は、幸せを望むこと自体が幸せを経験することになるという強い信念を、私たちに投げかけている。


*Film Comment [Jacque demy by Graham Petrie in the Winter 1971–1972 Issue]



文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。



『シェルブールの雨傘』を今すぐ予約する↓




作品情報を見る



『シェルブールの雨傘』

「ミシェル・ルグラン&ジャック・ドゥミ レトロスペクティブ」

全国順次公開中

配給:ハピネットファントム・スタジオ/アンプラグド

©Ciné-Tamaris 1993

PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. シェルブールの雨傘
  4. 『シェルブールの雨傘』ジャック・ドゥミの幸福論、人生における音楽と色彩の輪舞(ロンド)