2025.10.10
また幸せになるために
ミシェル・ルグランは自他ともに認める陽気な性格だが、陽気な音楽を作るのに苦労したという。このエピソードは、エティエンヌとビルが双子の姉妹にショーへの出演オファーをするシーンでユーモラスに表現されている。ミシェル・ルグランの十八番のようなエレガントでメランコリックな曲をピアノで弾いていたソランジュが「双子姉妹の歌」を歌い始めた途端に、エティエンヌとビルが姉妹と一緒になって楽器を手に取り踊り始める。そして「モーツァルト?ストラビンスキー?」「ルイ・アームストロングはお好き?カウント・ベイシー、ハンプトン、それとも別の音楽がいいかしら?ミシェル・ルグランはどう?」と歌が続くと、一気にエレガントで陽気なグルーヴへと突入する。多幸感が加速する。音楽と色彩のシンフォニーとなる。このシーンは、“クラシックとジャズの折衷”という『ロシュフォールの恋人たち』の美学的なテーマへの自己言及に留まらず、明るい曲を書くのに苦労していたミシェル・ルグランの作曲プロセスに敬意を示すような、開放的な祝福の響きを持っている。
空想に高揚している感覚がロシュフォールの街路にまで伝染していく。この映画の登場人物たちは、全員でハーモニーを奏でるための“譜面”を探しているようなものだ。ソランジュの落とした楽譜をアンディが拾うように。ダム氏(ミシェル・ピコリ)の経営する楽器店。アンディがピアノで楽譜を弾くとき、「コンチェルト」の美しい旋律にうっとりするダム氏は懐かしさを覚える。ダム氏はソランジュが自分の実の娘であることを知らない。そしてこの曲が娘の作った曲であることを知らない(名曲「コンチェルト」は、レオス・カラックスの『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』(24)に引用されている=父と娘の関係!)。
『シェルブールの雨傘』(c)Photofest / Getty Images
ロシュフォールの町の人々によるモザイク状になった空想は、あるべき場所にあるべきピースを収めるために、ひたすら高揚していく。しかし軍隊の行進がストリートを占拠するとき、現実の恐怖に侵食されそうになる。“戦前”であることの恐怖。カフェの常連デュトル(アンリ・クレミュー)は言う。「不穏な時代だ。大戦前夜の1939年を思い出すよ」。ジャック・ドゥミにとって1943年のナント空襲は、幸福だった子供時代の終わりとして大きなトラウマを残している。『シェルブールの雨傘』がアルジェリア戦争を背景に描かれていたように、戦争は幸福を容赦なく破壊する。『ロシュフォールの恋人たち』における天を突き破るような多幸感は、幸福の喪失と表裏一体の関係にあるのだろう。クライマックスとなるフェスティバルシーンは、すべてを振り切るような高揚感と幸福感に溢れている。この映画は、幸福を守るための戦いなのだ。
また幸せになるために。アニエス・ヴァルダは、『25年目のロシュフォールの恋人たち』の中で、「幸せな記憶とは“幸せ”そのものだ」と述べている。幸せな記憶を思い出すこと自体が、幸せの再現となる。フランソワーズ・ドルレアックは本作の公開の3ヶ月後に交通事故でこの世を去っている。ジャック・ドゥミは1990年にこの世を去っている。アニエス・ヴァルダは『25年目のロシュフォールの恋人たち』の最後に、双子の姉妹がフェスティバルで披露する「夏の日の歌」のメイキングシーンを抜粋している。過ぎ去った季節はすべて私たちのものだと。ただ愛するだけでいい。それは『ロシュフォールの恋人たち』とこの町の人々、そしてこの映画をこよなく愛する世界中の人たち=私たちへ向けられた“連帯”のメッセージだ。
「人生を愛し、花を愛し、笑うことを愛し、泣くことを愛し、昼を愛し、夜を愛し、太陽の光と雨を愛し、冬を愛し、風を愛し、街と故郷を愛し、海を愛し、火を愛し、大地を愛し、幸せになろう、幸せになろう!」
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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『ロシュフォールの恋人たち』
「ミシェル・ルグラン&ジャック・ドゥミ レトロスペクティブ」
全国順次公開中
配給:ハピネットファントム・スタジオ/アンプラグド
©Ciné-Tamaris 1996