2025.10.16
観客の倫理を暴く心理装置
第二幕で印象的なのは、国家安全保障局(NSA)の北朝鮮問題専門家アナ・パク(グレタ・リー)が、ゲティスバーグの戦いを再現するイベントを見物していること。これは非常に示唆的だ。
ゲティスバーグの戦いは、南北戦争における最大の激戦であり、アメリカが自らの手でアメリカ人を殺した内戦。つまり、核の発射をめぐって世界が崩壊寸前にある現在と、国家が分断によって自壊した過去は、鏡のように重ねられているのだ。この再現シーンは、「他国からの核攻撃」という表層的な外敵の物語の奥底に横たわる、アメリカ内部の自己破壊衝動というもうひとつの層を照射する。ビグローの言う「私たちの敵は私たち自身」という言葉を、映像的に具現化した場面といえる。
発射源を最後まで明かさないという構成も、ビグローの主題を強固なものにしている。北朝鮮説、ロシア説、あるいはヤケになった潜水艦の艦長説まで飛び出すが、結局のところ「誰が撃ったのか」は判然としない。この不明という空白は、単なるサスペンスの仕掛けではなく、むしろ象徴的な意図を孕む。敵が特定されないことで、観客は他者への恐怖ではなく、自己不信と向き合わざるをえなくなるからだ。
この映画では、ミサイルの着弾を映さない。アメリカは報復するのか、しないのかも明らかにしない。その態度こそが、ビグローの政治的決断である。見えない爆発、聞こえない叫び。可視化を拒むことによって、観客は想像する責任を負わされる。『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、暴力を見せる映画ではなく、見えない暴力がいかに制度化されているかを体感させる映画なのだから。
Netflix 映画『ハウス・オブ・ダイナマイト』
ビグローは常に、観客を安全な観察者の立場から引きずり出そうとする。『ハート・ロッカー』では、爆弾処理の緊張を観客の呼吸と同調させることで、戦場の中にいるような身体感覚を植え付けた。『ゼロ・ダーク・サーティ』では、尋問や殺害の映像を通じて、誰しもが「正義の名のもとに暴力を見つめる者」として加担していることを突きつけた。そして『ハウス・オブ・ダイナマイト』では、観客自身がシステムを眺めるシステムの一部に据え置かれる。
我々は、衛星映像やWeb会議を通して、ミサイルの軌道や指令のやり取りを観測する。しかし、その視点そのものが国家安全保障装置の内部に組み込まれたものである以上、観客の見る行為自体も、暴力の構造に接続してしまう。「見る=加担する」という、不快な共犯関係。ミサイルの閃光を映さないのは、道徳的良心からではない。見たいという欲望そのものを試すためだ。本作のクライマックスとは、爆発が起きる瞬間ではなく、観客がそれを求める瞬間なのだ。
観客は息を呑み、「次に何が起きるのか」を待つ。その期待の構造自体が、情報の過剰と暴力の視覚化に支配されたメディア環境を映し出す。ビグローは、観客の欲望のフレームを暴くことによって、暴力の真正面に立つことを拒む新しいリアリズムを打ち立てた。『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、戦争映画の外殻をまといながら、実は観客の倫理を暴く心理装置である。スクリーンのこちら側にいる私たち自身が、ボタンの前に立たされているのだ。
ビグローが描くのは、遠い未来の寓話ではない。その〈18分〉は、いまこの瞬間にも、私たちの手の中で進行している。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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