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『ジェイコブス・ラダー』聖書が照らすベトナム帰還兵の闇

(c)Photofest / Getty Images

『ジェイコブス・ラダー』聖書が照らすベトナム帰還兵の闇

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名前が表す聖書的寓意



 エイドリアン・ラインは元々のシナリオにあった聖書的モチーフを排除したが、その名残はしっかりと映画に刻まれている。特に象徴的なのは、“名前”だ。ジェイコブ、恋人のジェゼベル(エリザベス・ペーニャ)、亡き息子のゲイブ(マコーレー・カルキン)。登場人物の名はいずれも旧約聖書に由来し、それぞれが物語の霊的構造を暗示している。


 主人公ジェイコブ(Jacob)は、旧約聖書「創世記」に登場するヤコブの現代的な寓意だ。ヤコブはアブラハムの孫にしてイサクの子、イスラエル十二部族の祖として知られる重要な存在。若き日の彼は兄エサウを欺き、父の祝福を奪うという罪を犯すが、やがて放浪と苦難の果てに“神との格闘”を経験する。つまりヤコブとは、罪を背負いながらも神と対峙し、赦しを得ることで変容を遂げる人間の象徴なのだ。ジェイコブス・ラダーとは、文字通りヤコブの梯子(Ladder)という意味なのだろう。地上と天、肉体と霊、苦痛と救済のあいだを結ぶ魂の上昇=死後の解放を象徴している。


 一方、恋人ジェゼベル(Jezebel)は旧約聖書に登場する王妃イゼベルの暗示。彼女はイスラエル王アハブの妻でありながら、フェニキアの神バアルを崇拝し、その偶像信仰をイスラエル全土に広めた。さらに、主なる神ヤハウェに仕える預言者たちを迫害・殺害し、権力と享楽によって信仰と倫理を堕落させた人物でもある。


 映画のジェゼベルもまた、その名のとおり誘惑と堕落の化身として造形されている。彼女はジェイコブを光や救済の方向へ導くのではなく、肉体的・感覚的な快楽の世界へと引き止める存在。ジェイコブが苦しみの中で現実と幻想の境界を見失っていくほど、彼女は甘美で官能的な存在感を増していく。それはまるで、彼を天から遠ざけ、地上の欲望に縛りつけようとする“堕天使”のよう。


 彼女がジェイコブの息子イーライの名前を「変な名前」と嘲る場面は象徴的だ。旧約のジェゼベルが預言者エリヤ(Eli=Elijah)を迫害したように、この言葉には神的なものへの無理解と拒絶が込められている。映画のジェゼベルは、宗教的救済を拒み、肉体と情念の領域に生きる存在、ジェイコブの魂を地上に縛りつける試練の化身として物語に配置されている。



『ジェイコブス・ラダー』(c)Photofest / Getty Images


 そして、ゲイブはGabriel(ガブリエル)の短縮形だろう。彼は預言者ダニエルに神の啓示を伝え、マリアに受胎告知を行う天使として知られている。つまりガブリエルとは、神の言葉を伝える存在なのだ。映画の中でゲイブは、ジェイコブの亡き息子として登場する。生前の回想では穏やかで純粋な少年として描かれ、ラストでは光の中へ父を導く。まさに神の使いとしてのガブリエルの役割そのもの。その穏やかな微笑みと静かな光は、ホラーの文法を超えた“受胎告知=再生の告知”のイメージにも重なる。


 もちろん、エイドリアン・ラインはこれみよがしに聖書的モチーフを描いたりはしない。慎ましやかに、ほんのりと暗示するのみにとどめている。それでも、物語の根底には確かに宗教的寓意の深層が脈打っている。ジェイコブ(神と闘う者)は、ジェゼベル(堕落の象徴)という世俗の誘惑に引き止められながらも、最後にはゲイブ(神の使い)によって光のもとへ導かれる…。エイドリアン・ラインは、宗教的図像や説教的メッセージをことごとく排しながらも、身体・光・時間といった映画的手段によって、神話の核だけを残した。


 だからこそこの作品は、信仰や死生観を超え、「人間が死にゆくとは何か」「魂がどこへ向かうのか」という普遍的な問いを静かに投げかける。『ジェイコブス・ラダー』はホラーの形式を借りた救済譚であり、ブルース・ジョエル・ルービンの霊的ビジョンと、エイドリアン・ラインの感覚的リアリズムが奇跡的に交差した瞬間の記録なのだ。


(*1)https://www.brucejoelrubin.com/jacobs-ladder.html?utm_source=chatgpt.com

(*2)https://www.youtube.com/watch?v=Y-PEOavL0sI



文:竹島ルイ

映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。



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『ジェイコブス・ラダー』4Kレストア版

シネマート新宿ほか全国ロードショー中

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