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『Mr.ノーバディ2』舐められる父親の帰還

© 2025 Universal Studios. All Rights Reserved.

『Mr.ノーバディ2』舐められる父親の帰還

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『Mr.ノーバディ2』あらすじ

何者でもない男ハッチは、ロシアン・マフィアとの決闘から4年、焼失させた3,000万ドルを肩代わりした組織への借金返済のため、休日返上で任務を請け負っていた。一方で家族関係は崩壊寸前、その修復を兼ね一家でバカンスを計画する。だが、全米最古のウォータースライダーが売りの何でもないリゾートは、巨悪組織を率い、薬物と汚職にまみれた警官を支配する、一切容赦のない女レンディーナの密輸ルートだった。地元保安官との些細なトラブルが、たちまち巨悪組織とのド派手な全面戦争へとエスカレートする!


Index


「舐めてた相手が実は殺人マシンでした映画」の歴史



 雨後のタケノコのごとく、次々と作られる「舐めてた相手が実は殺人マシンでした映画」。スーツに身を包んだ英国紳士が最強エージェントだった『キングスマン』(14)、ホームセンターで働く温厚な男が元CIAの特殊工作員だった『イコライザー』(14)、冴えない会計士が凄腕暗殺者だった『ザ・コンサルタント』(16)、そして愛犬を殺されたことをきっかけに、封印していた地獄の仕事人としての本性を取り戻す『ジョン・ウィック』(14)…。


 この系譜のルーツをたどれば、1970〜80年代のアクション映画にその萌芽が見える。妻を殺された建築家が自ら銃を取る『狼よさらば』(74)は、平凡な市民が暴力に踏み出す姿を真正面から描いた作品であり、この流れの起点に位置づけられるだろう。国家や司法が機能しない社会のなかで、市民が自ら制裁を行う──いわゆるビジランテ(私刑)映画の嚆矢である。当時の暴力は、単なる報復ではなく、崩壊しつつあった社会秩序に対する個人の倫理的抵抗として描かれていた。


 しかし1980年代に入ると、暴力の主語は市民から英雄の肉体へとすり替わり、筋肉が正義を語る時代が到来した。シルヴェスター・スタローンの『ランボー』(82)やアーノルド・シュワルツェネッガーの『コマンドー』(85)では、国家や軍の正義は完全に腐敗し、超絶マッチョメンが力によって秩序を取り戻す装置となる。暴力は社会批判ではなく、エンターテインメントとしての快楽へと変質し、観客はその“力の幻想”を消費するようになっていく。



『Mr.ノーバディ2』© 2025 Universal Studios. All Rights Reserved.


 そして冷戦の終焉を経た1990〜2000年代、世界を救う使命は消え、代わりに「ある過去を持つ主人公が、静かな日常の中で再び銃を取る」というモチーフが台頭する。記憶を失った男が、自分でも知らないうちに訓練された殺人スキルを発揮してしまう『ボーン・アイデンティティ』(02)や、元CIA工作員が誘拐された娘を取り戻すために奮闘する『96時間』(08)は、その代表例。暴力はもはや大義ではなく、失われた自己を再起動させるための装置へと変わっていった。


 この延長線上に生まれたのが、「舐めてた相手が実は殺人マシンでした映画」だ。劇中人物は、ジョン・ウィックやロバート・マッコールを普通の中年男性と思い込んでいる。だが、いざ暴力が解放されると、世界の秩序が一変する。ビジランテ映画の「法の外で制裁を下す市民」は進化し、「社会に埋もれた過去の殺人マシーンが再起動する」という構図に置き換わったのだ。


 だが、このジャンルには根本的な矛盾が潜んでいる。ジョン・ウィックを演じるのはキアヌ・リーブスであり、ロバート・マッコールを演じるのはデンゼル・ワシントン。観客は彼らの顔を見た瞬間に、ただ者ではないことを察知してしまう。スクリーンの中で誰が驚こうと、観客は最初から真相を共有しているのだ。「舐めてた相手が実は殺人マシンでした映画」は、劇中人物の無知と観客の既知が噛み合わない、構造的なズレを抱えている。


 この流れの終着点に姿を現した『Mr.ノーバディ』(21)は、同じフォーマットに属しながらも、その矛盾を逆手に取って再定義した異端作だ。





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