2025.11.04
神ではなく父であること
デル・トロは25年以上ものあいだ、いつか最高の『フランケンシュタイン』を撮りたいと思い続けてきた。だが、あまりにも思い入れが強すぎるがゆえに、長らくその扉を開けられなかったという。この物語を撮ってしまえばそれは現実のものとなり、もう夢見ることはできなくなくなってしまう。創造とは、同時に喪失でもある──その事実を誰よりも知っていたからだ。
転機となったのは、『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』の成功。死と再生、父と子、創造と犠牲というテーマを通じて、彼は生命を創る者の責任という命題に到達する。そして次なる作品として、ついに『フランケンシュタイン』が始動。だがそれは、単なる古典の再現ではない。彼にとってこの物語は、「創造とは何か」「赦すとは何か」「人間とは何か」という問いに向き合うための、人生の集大成だった。
「AIを使うくらいなら、死んだほうがましだ!」(*6)と彼は断言した。創造を効率化することへの恐怖。それはヴィクター・フランケンシュタインが陥った傲慢と地続きの問題だ。デル・トロにとって創造とは、血肉と関係性、そして痛みを伴う行為である。AIが生成する完璧な創作には、失敗や傷跡がない。だが、彼が信じる芸術とは、不完全さの中に宿る人間の痕跡なのだ。
エロルディ演じるクリーチャーは、筋骨隆々の怪物ではなく、傷ついた魂を抱く存在として描かれている。その身体は彫像のように美しく、同時に壊れやすい。デル・トロはその脆さにこそ生命の真実があると考えた。人間とは完璧に設計された機械ではなく、常に感情に揺れ、常に見誤る。だからこそ彼は、この物語を「神の失敗ではなく、人間の赦しの物語」として再構築した。

Netflix映画『フランケンシュタイン』
『フランケンシュタイン』の撮影に際し、デル・トロは徹底して手で作ることにこだわった。CGによる合成ではなく、職人が作り上げたセット、美術。自ら筆をとり、プロップの彩色に加わることもあったという。ヴィクター・フランケンシュタイン博士を演じたオスカー・アイザックは、「これまでの人生で、映画の現場でこれほど楽しかったことはない」(*7)と絶賛している。監督が神ではなく、仲間の一人として創造に加わること。その態度こそが、ヴィクターとの決定的な違いである。
ヴィクター・フランケンシュタインは、生命を創りながらも父になることを拒む存在。彼の創造は愛ではなく支配であり、命を与えながら責任を放棄する。もはやそれは、AIやバイオテクノロジーに陶酔するテックブロの化身のよう。だが、デル・トロの映画は、その真逆を目指す。監督自身が、神ではなく父であろうとする創造主としてこの作品に臨んでいる。創造とは支配ではなく、理解し、赦し、共に痛みを引き受けることなのだから。
デル・トロは撮影を終えたあと、「まるで産後うつのような気分になった」(*8)と語った。創造とは喜びであると同時に、痛みでもある。ヴィクターは神を気取ったが、デル・トロは父であろうとした。その違いこそが、この映画の核心。信仰と恐怖と父性のオペラ『フランケンシュタイン』は、間違いなく彼にとって集大成となる作品だ。
(*1)「フランケンシュタイン」 光文社古典新訳文庫
(*2)https://www.edgemedianetwork.com/story/157210
(*3)https://www.netflix.com/tudum/articles/frankenstein-book-adaptation-guillermo-del-toro
(*4)(*5)https://www.cbsnews.com/news/guillermo-del-toro-on-frankenstein-and-remaking-a-monster/
(*7)https://screenrant.com/frankenstein-2025-oscar-isaac-guillermo-del-toro-fun-on-set/
(*8)https://apnews.com/article/frankenstein-venice-film-festival-2025-039e9e8a61d51c9829ca1058921d7e6e
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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