1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. フランケンシュタイン
  4. 『フランケンシュタイン』ギレルモ・デル・トロが描く、信仰と恐怖と父性のオペラ
『フランケンシュタイン』ギレルモ・デル・トロが描く、信仰と恐怖と父性のオペラ

Netflix映画『フランケンシュタイン』

『フランケンシュタイン』ギレルモ・デル・トロが描く、信仰と恐怖と父性のオペラ

PAGES


『フランケンシュタイン』あらすじ

天才だが傲慢な科学者ヴィクター・フランケンシュタインが禁断の実験によって生み出したのは怪物だった。やがて、ヴィクターと悲劇を背負った怪物は破滅への道をたどることに...。


Index


恐怖の怪物から人間的な被造物への再定義



 これはもう確実に藤子不二雄先生のせいなのだが、筆者の場合フランケンシュタインの怪物のイメージは、漫画『怪物くん』のフランケンで固定されてしまっている。四角く大きな頭部、真一文字の縫い跡、頭の両側にはボルトのような金具。厚い眉と半開きの目、どこか無愛想でぼんやりしている表情。大柄で筋肉質だが、動きや仕草はのんびり。そして何をきかれても「フンガー」としか喋れない。メアリー・シェリーの原作では怪物を造った人物こそがヴィクター・フランケンシュタイン博士であり、怪物にはそもそも名前がないのだが、筆者にとってはこの勘違いを生み出してしまった元凶も藤子不二雄先生である。どれだけ影響力がデカいんだ、藤子不二雄。


 元をただせば、1931年に公開された映画『フランケンシュタイン』でボリス・カーロフが演じた“怪物”の造形が、ビジュアル・イメージを決定づけた。メイクアップを担当したジャック・ピアースが生み出した平らな頭、首のボルト、縫い目、沈んだ目、重い歩き方といった特徴は、メアリー・シェリーの原作には存在しない創作。フランケンシュタイン博士が自ら生み出した怪物をどのように形容しているか、原作から引用してみよう。


「黄色い皮膚は、その下にある筋肉や動脈の動きをほとんど隠すことはなく、髪の毛は黒く光って流れるようで、歯は真珠のように真っ白です。しかしこのような輝かんばかりの特徴も、潤んだ目をよけい恐ろしく際だたせるばかり。その目は陰鬱な薄茶色の眼窩とほとんど同じ色ですし、やつれた顔やまっすぐ引かれた黒い唇も、やはりおどろおどろしく見えるだけです」(*1)


 確かに我々が頭のなかでイメージしているような描写はない。それでも映画が世界中で大ヒットしたことで、「フランケンシュタイン=四角い頭の怪物」という誤解が普遍化してしまった。藤子不二雄先生をはじめ、後の漫画家やアニメ作家たちもこの映画版の造形を踏襲し、ギャグや親しみを加えながら定着させた結果、私たちの中の〈フランケン像〉はもはやカーロフの面影なしには語れない。



Netflix映画『フランケンシュタイン』


 だが、ギレルモ・デル・トロ版『フランケンシュタイン』(25)が提示したのは、まさにその「誤解の上に築かれたフランケン像」からの決別だった。この映画における怪物は、平たい頭ではないし、首のボルトも持たない。むしろその外見は人間に近く、その内面は人間以上に繊細だ。


 当初、クリーチャー役にはアンドリュー・ガーフィールドがキャスティングされていたが、撮影スケジュールの都合で降板。代わって抜擢されたのが、HBOのドラマ『ユーフォリア/EUPHORIA』(19~)で冷徹な青年ネイト役を演じて注目を集め、『Saltburn』(23)では英国貴族の青年を妖艶に体現したジェイコブ・エロルディだ。デル・トロは「彼の目には、人間性があふれている」(*2)と語り、その瞳の奥に宿る哀しみと好奇心こそが、怪物に命を吹き込む決め手になった。


 演技プランの核心は視線と所作。メイクに頼らず、目の無垢さと身体の開放性で感情の揺れを表現し、ときに獣のスイッチが入る瞬間的な危うさを織り交ぜた。かくしてデル・トロ版のクリーチャーは、ボリス・カーロフが創り上げた古典的イコンを脱ぎ捨て、人に最も近い存在として再生を遂げる。それは恐怖ではなく、感情と赦しの形をした被造物の再定義だった。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
counter
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. フランケンシュタイン
  4. 『フランケンシュタイン』ギレルモ・デル・トロが描く、信仰と恐怖と父性のオペラ