映画についての映画、演技についての映画
「旅とは言葉から離れようとすることかもしれない」
『旅と日々』は人生という旅についての映画であり、映画についての映画であり、演技についての映画だ。異界=海辺で出会った夏男と渚は、夜の港町を背景に語り合う。夜の闇に溶けていく二人。渚は別の人物のふりをして別の人生を生きることを夢想する。このときの渚の言葉は、“演技”についての言及といえる。演技とは他人の人生を生きることだからだ。もう一人の自分。もう一つの人生。分裂する自分。本作において、それは机に向かって物語を創作する李と、一人旅という実体験に向かう李の間に起きる。そして李の脚本による映画を、おそらく誰よりも評価している魚沼先生を演じる佐野史郎の登場が、ユーモラスな形で“分裂”を体現することになる。
もう一つの人生というテーマは、三宅唱が監督と共同脚本を務めた『杉咲花の撮休』(23)の第5話「従姉妹」においても追及されている。杉咲花が自分とそっくりな従姉妹(杉咲花)の前で、最近の悩みを打ち明けるシーンがある。メディア等のインタビューでよく聞かれる“俳優になったきっかけ”に関する質問。杉咲花は自分の回答に疑問を投げかける。この職業に就いたからこそ、“俳優になったきっかけ”という物語を今の視点で語ることができるものの、もし別の職業に就いていたら、まったく別の物語を語っているはずだと。そこには省略され、捨てられてしまった小さな出来事があったのではないか?という疑問。自分にそっくりな従姉妹は、もう一人の自分であり、もう一つのありえたかもしれない人生の可能性として、主人公の目の前にいる。

『旅と日々』© 2025『旅と日々』製作委員会
『旅と日々』は、このテーマを人間だけでなくモノ、そして風景論にまで大きく広げている。何度も登場するカメラというアイテムが、重要な意味を持つ。写真を撮るという行為は、シャッターを切ったときだけでなく、出来上がった写真によって新たに発見される感情がある(作者ではなく鑑賞者=観客によって発見されることもあるだろう)。そして撮ったときには気づけなかった“物語”がそこに加えられていく。同時にフレームの外は切り捨てられる。本作はシャッターを切る瞬間の生の衝動、”物語“が付与される前にあったはずの、純粋な感情を捉えようとしている。それは李が内面を告白するナレーションと重なっている。韓国から日本にやってきた頃の、すべてが新鮮な驚きに溢れていた感覚。言葉が感情に追いついてしまう前の感覚。李が雪の手触りを確かめるショットは、本物の雪の感覚を体に記録するためにある。雪の手触りや冷たさと向かい合うためにある。この映画のあらゆる風景は、すでに知ったつもりになっているものを、改めて問い直しているのだ。