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『旅と日々』消滅と再生の映画、別の人生を生きること、旅をすること

© 2025『旅と日々』製作委員会

『旅と日々』消滅と再生の映画、別の人生を生きること、旅をすること

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映画を見ることは旅に似ている



 魚沼からカメラを譲り受けた李は、アパートの窓辺から列車の写真を撮る(走り抜ける列車の一つ一つの窓の光が、映写機を回るフィルムのコマのように見える)。次のショットで、列車がトンネルを抜けると、雪国の世界が広がっていく。海辺からもっとも遠い雪国への旅が始まる。このワープのようなショットのつなぎは、渚が資料館の木々の絵から森に到った流れと一致している。渚は瞳という“カメラアイ”でワープしたが、李はカメラのファインダーを覗き込むこと、シャッターを切ることでワープする。このことは物語を創作するための“旅の必需品”が、鉛筆からカメラに変わったことを告げている。李は地図には記されていない、べん造(堤真一)の宿屋へ向かう(べん造の宿屋は“地図の外”にある!)。


 第二部にあたる雪国への旅が始まると、私たち観客は、三宅唱が“雪の映画作家”であることを改めて思い知る。長編デビュー作『やくたたず』(12)における、降り積もった雪の中を歩行する少年たちの姿。『密使と番人』(17)における、雪原の取っ組み合い。雪はロマンではなく、ただ雪として唯物的に表現される。三宅唱は雪の感覚を知っている。そして雨の感覚を知っている。その感覚の鋭さに驚かされる。『旅と日々』における雪や雨や風は、音自体が持つ表情を含め、私たちの皮膚感覚にとても近い。本作には夏と冬、海と雪が描かれている。しかし荒れた海を泳ぐ夏男と渚の唇が、海と一体化するように“青く”なったように、夏の海はひどく冷たい。そしてべん造の経営する冬の宿屋には温かみがある。温もりの痕跡が、この宿の静物、家具に残されている。多くを語ろうとしないべん造の過去、人生、物語が、この宿屋に温もりをもたらしている。宿に残された様々な痕跡は、寡黙なべん造とは対照的に、“おしゃべりな静物”といえる。



『旅と日々』© 2025『旅と日々』製作委員会


 『夜明けのすべて』(24)の美沙(上白石萌音)と山添(松村北斗)の関係ように、三宅唱の映画における人と人のつながりは、恋人や家族といった、名付けることのできるつながりではない。夏男と渚、李とべん造。『旅と日々』の登場人物もまた、見知らぬ者同士である(英題は『Two Seasons, Two Strangers』)。何かの目的に向かって強い結束を持つ共同体ではなく、人生のある瞬間に同じ何かを目撃することで偶然につながった共同体といえる。それは映画館という暗闇に集う私たち観客同士のつながりに近い。『旅と日々』は、映画を撮ることについての映画であるだけでなく、映画を見ることに関する映画だ。映画を見ることは旅に似ている。さらに見知らぬ人の人生を“生き直す”ことでもある。消滅と再生の映画。真白い雪の上をダークグレーのコートを纏って歩んでいく李とHi’Specの手掛ける微笑みのように温かいスコアは、私たちがまだまだ旅の途中であることを教えてくれる。旅の途中だからこそ、無限の可能性に満ちている。画面いっぱいに広がる雪は、空白のキャンバス=スクリーンとなる。『旅と日々』は、三宅唱の最高傑作であるだけでなく、2025年に生きる私たちに可能性を示す最高の映画である。



文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。



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『旅と日々』

TOHOシネマズ シャンテ、テアトル新宿ほか全国ロードショー中

配給:ビターズ・エンド

© 2025『旅と日々』製作委員会

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