2026.01.31
2人の監督は同じ方向を向いているのか?
「戦場をそのまま提示するニュートラルな映画」というコンセプトは、非常に興味深く、実際に本作はそこに果敢に挑んで一定の成果を上げている。ガーランド自身、本作では自分の主義や主張を抑え、慎重に政治的信条を入れないように気をつけたと語っている。しかし本当に、100%ニュートラルな戦争映画など存在可能なのだろうか?
というのも、『ウォーフェア』で描かれる状況やセリフは当事者の兵士たちにインタビューを行って再構築されたものであり、余計な脚色は一切していないという監督発言を信じるとしても、たとえば狙撃兵のエリオットが街の往来にライフルを向けているときのスコープ視点の映像は、(エリオット本人が記憶を失っているため)映画のために作られたものということになる。
米兵が民家に押し入り、普通に住民が暮らしている街の一角に銃を向け、誰を殺すべきかを考えている。その行為はひとつの事実かも知れないが、われわれ観客はそれをスコープ越しの主観映像で見ることで、兵士が備えなくはならないある種の非人間性と自分を同化させることになり、居心地の悪さや空恐ろしさを感じる人は多いはずだ。繰り返しになるが、エリオット本人に記憶がない以上、この主観映像は人為的にエリオットの視点を創作した部分ということになる。

『ウォーフェア 戦地最前線』© 2025 Real Time Situation LLC. All Rights Reserved.
また映画の終盤、米兵たちが撤退していった後に、ただ呆然とするしかないイラク人家族の姿が差し込まれる。米兵たちが、現地民にとってただただ災厄でしかなかった現実を示すあの映像は、もはやメンドーサら兵士たちの視点ではない。兵士たちが見た戦場を描くなら、退避する戦車の中の兵士たちの表情で終わることだってできただろう。この構成に強烈に皮肉な意図を感じるのは、多くの人にとって自然な反応だと思うがいかがだろうか?
さらに言えば、実際に作戦に参加していた兵士たちの写真(その多くは顔も名前も伏せられているが)や、彼らが撮影現場を訪れた姿が映し出されるエンディングは、それまでの硬質な実録タッチとは打って変わって観る者をいささか戸惑わせる。戦場をフラットな視点であるがままに見せる趣旨のはずが、共同監督のメンドーサが戦友たちへのリスペクトを表明しているようにも見えてしまうからだ。