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『デス・レース2000年』これぞロジャー・コーマン式映画術!低予算ながら驚くべき破壊力を持った、70年代の超人気カルト作
2017.08.23
なぜコーマンとその作品はこれほど愛される?
もちろん、このB級のノリに触れるだけで無性にハマってしまう人もたくさんいるはず。ただし、本作に臨む上では被写体のみならず、カメラの向こう側にいるスタッフたちの息遣いを想像しながら楽しむのもまた一興かと思われる。
この映画にはとにかく、金はないが観客を楽しませようとする熱意とサービス精神が溢れている。プロがきっちりとやるべき仕事をこなして出来上がったものというよりは、むしろスタッフやキャスト一人一人が、過剰なくらい存分に情熱を全力投球している「おもてなし」ぶりがひしひしと伝わってくるのだ。このような途方もないバイタリティが発露される裏側には、やはりコーマン特有の方法論があるのだった。
その中のほんの一例を紹介しよう。これはあらゆるコーマン作品に共通することだが、彼が手がける映画はどれもが低予算で、若い才能やキャリアのない人材がとにかく安いギャラでこき使われる。しかしそれでもコーマン映画の現場には次から次へと入門者が後を絶たず、現場はギラギラした若者たちで占められていたのだそうだ。これはなぜだろう?
答えは簡単だ。たとえ大学で映画製作を勉強したとしても、若者たちは卒業後にすぐさま第一線の大作スタジオ映画に携われるわけではない。彼らはまだ何もなしえていない無名の若者に過ぎない。それゆえ喉から手が出るほど「現場経験=キャリア」が欲しいわけである。
その点、コーマン作品は格好の修行の場。「コーマン・スクール」とさえ呼ばれるほどだった。この業界で一旗揚げたい若造達がこぞって門戸を叩き、彼らの才能を見極めた上でコーマンもまた「じゃあ、お前に任せる!やってみろ!」とどんどん仕事を振る。こうやって不思議な絆が生まれていく。と同時に、同じ釜の飯を食う仲間たちが切磋琢磨し合うことによって現場の上昇気流が生まれていったのは言うまでもない。
また、彼の現場では一つの仕事にとどまらず、何役でもこなさねばならない。脚本や第二班監督や美術や編集など、求められれば何でも手がける必要がある。こうやって「コーマン・スクール」で研鑽を積んだ若者たちは「限られた資源(予算、時間)から最大限の物を創造する」ことを実践的に学んでいく。そしてなおかつ、「あらゆるトラブルには必ず解決策がある」ことも学ぶ。これは案外、映画の世界を生き抜く上で最も大事なことと言えるのかもしれない。
誰もが死ぬ気で格闘した。ここで何かを成し遂げ、少しでも早く這い出して次の段階へと向かいたいと切望した。そんな状況に、カーレース、キャラクター、バイオレンス、社会風刺、ブラックユーモアという要素が奇跡的に組み合わさり、それから過激なことでもなんでもありだった70年代の特殊な空気も相まって、いつしかとんでもない怪作に仕上がっていた。それゆえ、スタッフの多くは撮影の打ち上げ時に上映された仮編集の映像を観て驚いたという。おそらくみんなそれぞれの仕事に一生懸命すぎて、自分たちがこんな規格外のシロモノを育てていたとは想像もしなかったのだろう。
コーマン映画は決して理屈では語れない。でもだからこそ、40年が経った今なお、『デス・レース2000年』の劇場では、スクリーンの向こう側とこちら側とが変わらぬ映画愛を共有し合えるのだろう。本作でもスタッフやキャストの誰もが「これでもか!」というほど死力を尽くし、そこで生まれたものは決して美しくまとまりのあるものではないが、そういった次元を遥かに凌駕したパワーが感じられる。本作に触れると、誰もが若手時代に戻ったかのような心の疼きを感じ、今にも米大陸をニューヨークからロスまで走り出したくなるほどの衝動にかられるはずだ。