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『パリから来た殺し屋』異邦人の視点から見つめた、批評的LAノワール

© 1972 Gaumont (France) / Mondial TE-FI Televisione Films (Italie)

『パリから来た殺し屋』異邦人の視点から見つめた、批評的LAノワール

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死の尊厳が剥製にされる場所



 物語が最後に行き着く舞台は、驚くべきことに葬儀場。このクライマックスにおいて、『パリから来た殺し屋』は単なるアクション映画の枠組みを突き抜け、より鋭い社会批評へと踏み込んでいく。それまでこの映画が通底させてきた「異邦人によるアメリカ観察」という毒が、最大級の濃度に達し、一気に爆発するのだ。


 ヴァルハラと名付けられた葬儀場の特別室には、殺されたはずの首領コヴァックスの遺体が、剥製のように椅子に座らされている。生きているかのように飾り立てられたその姿に、死の尊厳など微塵も感じられない。そこにあるのは、実の父を展示物として扱い、その死さえもビジネスの演出に利用しようとする息子アレックスの、不謹慎すぎる思惑だ。


 その悪趣味空間をさらに際立たせるのが、部屋を彩る鮮やかな献花だ。赤、白、青の花々を敷き詰め、巨大なアメリカ国旗を模したその飾りは、国家の尊厳さえもが死のショウを引き立てる小道具に成り下がったことを示している。本来、死とは沈黙に包まれた厳粛なものであるはず。だが、この映画が映し出すロサンゼルスでは、死も、そして愛国心の象徴ですらも、一つのコンテンツとして作り替えられ、ただただ消費されていくのである。


 このヴァルハラという名称自体、実に意地が悪い。本来、北欧神話におけるヴァルハラとは、戦場で華々しく散った勇者たちが集う「誇り高き戦士の楽園」を意味する。しかし、ここで目にするのは神話的な威厳とは程遠い、安っぽくデコレーションされた資本主義の産物でしかない。椅子に座らされたコヴァックスも、立派に戦死したわけではなく、自宅であっけなく暗殺されただけ。神々しい呼び名と、惨めで滑稽な現実とのギャップ。そこにこそ、ドレー監督がアメリカ社会へ向けて放つ、乾いた嘲笑が潜んでいる。



『パリから来た殺し屋4K』© 1972 Gaumont (France) / Mondial TE-FI Televisione Films (Italie)


 このヴァルハラでルシアンが最後に対峙するのは、父の死を私物化するアレックスだ。パリから組織の大物アントワーヌ(ミシェル・コンスタンタン)が駆けつけたことで、静まり返った聖域は一転、凄惨な銃撃戦の場と化す。偽りの戦士の館で、本物の暴力が炸裂し、塗り固められた欺瞞を剥ぎ取っていく。


 追ってくる警官に撃たれたアントワーヌは、走り出す霊柩車に必死にしがみつく。だが、本来なら死者を丁重に運ぶための車に引きずられ、最後は芝生の上で息絶える。この光景が突きつけるのは、死者の尊厳すら守られない、都市というシステムの非情さだ。その救いようのない虚無感こそが、ドレー監督の描くノワールの真髄といえるだろう。


 結局のところ『パリから来た殺し屋』が描き出したのは、すべてがパッケージ化され、実存が摩耗していくアメリカの肖像だ。映画の幕が降りた後、観客の耳に残るのはルグランのジャズ・ファンクではなく、冒頭で描かれた、あの異様な無音の感触だ。すべてをショウとして消費し尽くした後に残る空虚。それこそが、ドレーが異邦人の冷めた目線で捉えた、この街の真の姿だったのである。


参考資料

https://www.arte.tv/sites/olivierpere/2024/08/20/un-homme-est-mort-de-jacques-deray/



文:竹島ルイ

映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。



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作品情報を見る



『パリから来た殺し屋4K』

新宿武蔵野館ほか全国順次公開中

提供:キングレコード 配給:コピアポア・フィルム

© 1972 Gaumont (France) / Mondial TE-FI Televisione Films (Italie)

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