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『バルタザールどこへ行く』アンヌ・ヴィアゼムスキーとロバ、厳格さと驚きが幸福にクロスする地点
2026.04.27
アンヌ・ヴィアゼムスキーの「少女」
『バルタザールどこへ行く』のマリーは、悪に魅せられる。マリーには幼馴染みのボーイフレンドがいる。ジャックとマリー。幼い頃、ブランコに乗ってお互いの名前を呼び合った恋人たち。思い出のベンチには二人の名前が彫られている。幼いバルタザールは洗礼の儀式を受ける。バルタザールは様々な飼い主に引き取られるが、繰り返しマリーの家へと帰っていく。幸せだった幼少期に回帰するように。ロベール・ブレッソンは10分足らずの早さで、マリーとバルタザールの幼少期を描いていく。ジャン=リュック・ゴダールが指摘するように、“あえていえば、もう一人のロバ”であるマリー。「マリー、マリー、マリー」。父親が娘を探すときに連呼される声は、不思議なことにロバの鳴き声のように、あるいは行方不明になった愛玩動物の名前を呼ぶように聞こえる(名前の後ろにアクセントを持ってきている)。本作ではマリーの歩みとバルタザールの歩みが、並行して描かれていく。
アンヌ・ヴィアゼムスキーの小説「少女」は、ロベール・ブレッソンの撮影現場における彼女とオフの彼女が並行して描かれている。マリーとアンヌがまったく思いがけない形でクロスする瞬間の美しさ。どこまで脚色されているか不明だが、この小説が優れているのは、まさしく『バルタザールどこへ行く』がマリーとバルタザールを並行して描かれていたことと密接な関係にあるところだ。「少女」の主人公は、ロベール・ブレッソンに見つからないように、スタッフの男性と恋に落ちる。密会する。初めてのセックスを経験する。それは本当の恋というよりも、思春期の好奇心に満ちた無邪気な冒険のように思える。アンヌ・ヴィアゼムスキーの小説は、『バルタザールどこへ行く』と同じく、少女時代の終わりを描いている。
『バルタザールどこへ行く』のマリーは、ロベール・ブレッソンが“悪の精霊”と定義するジェラールに誘惑される。不良の一味であるジェラールは、路上にオイルを撒き、道行く車をスリップさせて遊ぶ。ロバの馬車で移動するマリーと父親をからかう。ジェラールは教会で歌う。祈りを捧げるマリーの背中。マリーが振り向き、視線を上に向けると、ジェラールという“悪魔”が歌声を響かせている。この教会のシーンの高低差を活かした演出が冴えわたっている。少女が悪魔に支配されていく予感のようなものがある。ジェラールは決してマリーのことを愛しているわけではない。ジェラールはバルタザールと父親を愛するマリーの素朴さ、純粋さを破壊するために彼女に近づいていく。ジェラールは、マリーから“聖なる愛”を受けるバルタザールに嫉妬している。マリーもまたジェラールを愛しているわけではない。田園地帯から逃れたいマリーは、ジェラールを自己破壊のきっかけにしようとしている。しかし、ジェラールが彼女の望みを叶えることはない。マリーは汚れていく。

『バルタザールどこへ行く』(c)Photofest / Getty Images
ピエール・クロソウスキーが演じる商人とのシーンが圧巻だ。マリーは一対一で彼と向き合う。ロベール・ブレッソンの映画では視線が何より重視されるが、空腹のマリーはエサを頬張る動物=ロバのように、一心不乱にジャムを口に放り込む。商人はマリーの右肩、そして左肩に手を添えるが、彼女はそれを叩いて払いのける。商人の目をまっすぐ見つめながら、リンゴを齧る。マリーは明らかにこの男を誘惑、挑発している。商人の家にたどり着いたとき、マリーはこの家の印象を「死ぬにはいいわ、何も後悔しない」と述べている。もはや彼女の中に失うものはないのだろう。
ロベール・ブレッソンが本作に用いたと公言する“エロティシズム”は、“ポルノグラフィ”とは一線を画する。官能はどこにあるか。『バルタザールどこへ行く』における“エロティシズム”とは、マリーの中に生まれる不安定なパッションのことだろう。それはジェラールや商人といった、彼女を獲物とする異性との間に生まれる肉体的な接触ではなく、むしろバルタザールへの無償の愛や、ジェラールたちに蹴られるバルタザールを助けようとしないマリーの内側に生まれるものだ。天使と悪魔が彼女の内側に共存している。行動が先にあり、心がそれに気づく。内なる悪魔に誘惑された本人でさえ予測不能な動きを、この映画は“エロティシズム”と呼んでいる。