2026.05.20
国際映画祭の存在を根底から覆す“疑念”
本作で示唆されたような拷問が続いたことを念頭に置けば、現実にイスラエルとアメリカの爆撃によってイランの最高指導者が死亡し、政府が大きく揺らいだことで、イランの一部市民が歓喜の声を上げたという事実にも頷けるところはある。自国が攻撃されることを歓迎するという倒錯的ともいえる境地に市民を追い込んだということが、イラン政府の悪逆の結果であったことも確かだろう。
とはいえ、それが爆撃する側の正義であるはずもない。小学校を爆撃するに至った軍が、圧政から一般市民を救うために手を下したとは到底考えられない。この構図は単に、支配のための暴力をさらなる暴力で支配し、塗り潰しているのに過ぎないというのが、公平な見方であるはずだ。そしてこの関係は、本作における復讐者たちが、暴力に対抗するのに暴力を行使せずにおれなかった現実に重ね合わせることができる。

『シンプル・アクシデント/偶然』©LesFilmsPelleas
最近、かつてパナヒ監督が受賞したベルリン国際映画祭において、ドイツの政治ジャーナリストのティロ・ユングが、2026年の審査員たちや映画祭のディレクターに対して、このような質問をした。映画祭は、これまでイランの市民運動やウクライナに対しては明確に連帯を示してきた。それなのに、パレスチナにはそうしてこなかった。ドイツ政府はイスラエルを支援しており、しかも映画祭の資金提供者でもある。あなたたちは、この選択的な人権の扱いを支持するのか、と。これに対し、審査員長を務めていたヴィム・ヴェンダースは、「映画監督は政治から距離を置くべきだ」と回答し、大きな物議を醸したのだ。
筆者はこれまで多くの日本の観客同様に、西洋の映画祭の評価を通したかたちで、パナヒ監督の作品に触れてきた。そもそも受賞がなければ、日本で作品を観られる機会は少なかったはずである。しかし、こうした映画祭における“選択的な人権の扱い”があるのではという疑念は、いままで社会問題や政治問題に鋭く切り込んできた、西洋の国際映画祭という存在を根底から揺るがす可能性があると感じている。散々政治を扱ってきた映画祭が、イスラエル問題となると“二重基準”を持ち出すのである。