2026.05.20
※本記事は物語の結末に触れているため、映画未見の方はご注意ください。
『シンプル・アクシデント/偶然』あらすじ
かつて不当に投獄されたワヒドは、ある偶然の事故によって、人生を奪った残忍な義足の看守と出会う。ワヒドは咄嗟に男を拘束し、荒野に穴を掘って埋めようとするが、男は「人違いだ」と言う。実はワヒドは、看守の顔を見たことがなかった。男は、本当に復讐相手なのか? 一旦復讐を中断し、看守を知る友人を訪ねるが…。
Index
世界三大映画祭・最高賞を制覇したイランの巨匠
体制と闘う映画監督、ジャファル・パナヒ。保守派政権による収監や映画制作禁止処分を受けながらも、イランの現状を広く伝える作品を撮り続けている巨匠である。その新作『シンプル・アクシデント/偶然』は、2025年のカンヌ国際映画祭で最高賞「パルム・ドール」を受賞した。イラン映画として28年ぶりの受賞となったこの快挙により、パナヒ監督はカンヌ、ヴェネツィア、ベルリンと「世界三大映画祭」すべての最高賞を制覇した史上4人目の監督となった。
そんな記念碑的な本作『シンプル・アクシデント/偶然』は、持ち前のユーモアを発揮しながら体制と対峙するという意味で、過去作と連携しながらも、同時にかつてなく暴力的で陰惨な題材となっている。直接的に描かれる復讐劇だけでなく、政府が政治犯と見做した者たちへの拷問や心の傷が暗示されているのである。
2010年に反体制的であるとされ、禁錮刑と20年間の映画制作禁止処分という判決を受け、再逮捕されるも国外の映画人たちの支援や、ハンガーストライキによる解放を勝ち取るなど、政府に屈せず亡命もせず、あえてイラン国内にとどまって内側から映画を撮り続けてきたパナヒ監督。その覚悟は、自身が出演した前作『熊は、いない』(22)のストーリーや演出でも示されていた。

『シンプル・アクシデント/偶然』©LesFilmsPelleas
社会を批判的に描いた作品が国際的な映画賞を受賞することは、保守政権下では栄誉どころか、国の恥を晒したと見られたり、挑発的な態度だと判断されることがある。日本でも2018年にパルム・ドールに輝いた『万引き家族』(18)が、「諸外国に日本の貧困イメージを発信しかねない」、「公的資金をもらいながら政権批判はおかしい」などと、一部の政治家や保守層から懸念や批判の声が発せられたことを思い出す。
そしてパナヒ監督は本作を撮った後、アメリカでのプロモーションをおこなっている間に、イランでの欠席裁判で懲役判決を受けることになってしまう。このような事実は、むしろパナヒ監督が描いていた政府の問題を裏付けてしまっているといえるだろう。
2026年2月、そんなイランに、イスラエルとアメリカによる軍事攻撃が開始された。その被害は、イラン国内の軍事インフラや核関連施設、民間施設にも及び、女子小学校がミサイル攻撃を受け、児童や教師ら約160人以上が死亡、負傷するという凄惨な事件も発生した。『人生タクシー』(15)や本作に登場する幼い少女の顔を思い浮かべた映画ファンも多かったのではないか。この攻撃に対し、イラン側も報復のミサイル攻撃などの抵抗を試みていたものの、軍事技術の差を前にして国内のインフラが麻痺しつつある状況だ。
もちろん、この軍事攻撃が始まる前に制作されていた本作の描写が、こうした事態に直接関係しているわけではないだろう。しかし、イランを取り巻く現在の深刻な世界情勢を考える上でも、イラン映画の在り方や暴力の連鎖という構図を考える意味でも、本作は非常に示唆的な内容になっているのだ。そうしたテーマとしての射程を、本作はすでに持っていたということである。