© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
『急に具合が悪くなる』あなたの視界の中で生き続ける
声の走り方、あなたは誰?
路面電車で打ちひしがれているマリー=ルーの視界に、走る智樹(黒崎煌代)の姿が飛び込んでくる。智樹は路面電車にぶつかりそうな距離を並走する。智樹はマリー=ルーの視界における“侵入者”だ。マリー=ルーは智樹を保護する。雨が止むまで共に過ごす。真理と吾朗(長塚京三)が智樹を迎えにくる。真理はマリー=ルーの話す日本語に反応する。しかし真理は日本語以上に、智樹の視界に入って言葉を投げかける彼女の行動に反応したのかもしれない。“ユマニチュード”というケアの哲学を、マリー=ルーは自然と身につけているようだ(見る、話す、触れる、立ちあがる。この技法はなんと映画的なのだろう!)。智樹の放つ言葉未満の声は、『急に具合が悪くなる』において、もっとも純粋な音として耳に残り続ける。
真理が演出する吾朗の一人舞台「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」。吾朗はフランス語を話せるが、母国語である日本語で演じる。空間を切り裂くような長塚京三の演技が冴えわたっている。同時に濱口竜介のフィルモグラフィー上、映画と演劇の交錯が過去最高の美しさで実を結んでいる。観客参加型の劇。この劇に自由に侵入する智樹の声が際立っている。終演後の質疑応答で、マリー=ルーは日本語で真理に質問する。このときの、心の内へと向かっていくような声の走り方が素晴らしい。公の場であるにも関わらず、ここでは“私”の声が響きはじめる。日本語を理解できない他の観客は置いてきぼりにされる。マリー=ルーと真理の2人だけの空間になるような、親密にして奇妙な感覚が生まれる。

『急に具合が悪くなる』© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
「あなたは誰?」。パリの街、公共空間を歩きながら、真理はマリー=ルーに問いかける。濱口竜介は繰り返しこのテーマを扱っている。『親密さ』(12)の劇団員の間で交わされるカウンセリング。『偶然と想像』(21)の第3話「もう一度」における、人違いがきっかけで出会った2人の女性の会話。黒沢清の『CURE』(97)で執拗に繰り返される「あんた誰だ?」という強烈な台詞の“変奏”ともいえるテーマだ。フランスの大学で哲学を専攻していて、今は演劇の作家である真理。日本の大学で人類学、少子高齢化を研究していて、今は認知症介護施設の責任者であるマリー=ルー。東日本大震災をきっかけに真理は日本に帰り、マリー=ルーはフランスへ帰った。すれ違うように異国の地を離れた“2人のマリー”が、2025年の6月にパリで初めて出会い、「あなたは誰?」と問いかける。肩書や経歴、国籍や属性では自分のすべてを説明できない。出会う私とあなたの目の前に、完成された自分はいない。この映画はお互いの瞳の中に自分を映すことで、その答えを探そうとしている。