ミューズは視線を跳ね返す
グザヴィエ・ラフィットは、オーディションの最後に言い残したことがあるかを問われ、絵が描けることをゲリンに告げたという。『シルビアのいる街で』に留まらず、ゲリンは肖像画というテーマにこだわり続けている。短編『アナへの2通の手紙』(10)には、ゲリンが探求する肖像画のテーマ、創作の秘密が掘り下げられている。様々な人間の複合体としてのミューズ。肖像画を形作るのは、必ずしも一人のミューズではないということだ。『ミューズ・アカデミー』(15)のピント教授は、ダンテがベアトリーチェというミューズを遠くに置いたことを語っている(この作品には性別を問わず、誰もがミューズや詩人になり得ることが描かれている)。
『シルビアのいる街で』の青年は、追跡中に赤いキャミソールとロングスカートの女性を見失ってしまう。青年はアパートの窓の外に干された花柄のワンピースに気をとられる。知らない女性のワンピースが、身体のない肖像のように、やさしい風に揺れている。身体のない肖像とは、未完成の肖像画であり、それは青年のスケッチブックに描かれたシルビアの絵と美しいイメージの韻を踏んでいる。

『シルビアのいる街で』© Eddie Saeta s.a./Chateau-Rouge Production
ゲリンは世界中を駆け回る旅人であり、フラヌール(遊歩者)であり、世界の類似性を記録として収集する映画作家だ。類似性は日常的なイメージや生活習慣の符合だけでなく、様々な映画の記憶の中からも呼び起こされる。F・W・ムルナウの『サンライズ』(27)を想起させる路面電車のシーン。ついに横並びになる青年と女性。路面電車で2人が並んだ際の、窓の外に流れるストラスブールの風景が、不思議なことにスクリーンプロセスのように見える。2人が景色から浮き上がったように見える。ストラスブールの路面電車が、フィルムを早送り、あるいは巻き戻しするようなタイムマシーンになる。後にアメリカで『ネオン・デーモン』(16)等を手掛けるナターシャ・ブライエの撮影が際立っている。ゲリンはストラスブールを、様々な人種が混在する移民の街として捉えてきた。フラヌールという生き方。路面電車のシーンは、本作のコスモポリタン性だけでなく、映画の国の住人の生き方を清々しく宣言している。
1979年のブロンディのヒット曲「ハート・オブ・グラス」が流れるナイトクラブは、まさしくタイムマシーンだ。ミューズは視線を跳ね返す。ゴスパンクの女性が、ほとんどまばたきもせず、青年の視線を跳ね返している。『シルビアのいる街で』は、ミューズによって残酷に跳ね返された視線の行方を追いかける。灰になった視線は、風に乗って、また別のどこかに向かう。この映画のフレームは、開け放たれた窓のようにそのすべてを受け入れている。2000年代を代表する傑作だ。
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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© Eddie Saeta s.a./Chateau-Rouge Production