『勝手にしやがれ』あらすじ
マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺し逃亡中のミシェル。パリに着いたミシェルは、記者志望のアメリカ人留学生、パトリシアのアパートに転がり込むが、警官殺しの犯人として新聞に載ってしまうーー。
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覚醒のエンジン、死のエンジン
「そしてある種の映画が終わりを告げようとしている。たぶんもう終わってしまったんだ、それならば終止符をうってやろう、どんなことをしてもかまわないのだということを示してやろう、と。ぼくがしようとしたのは、ある月並みな物語から出発して、すでにつくられている映画の全体をつくり直すということ、といっても、違ったやり方でつくり直すということだったんだ。」(ジャン=リュック・ゴダール)*1
ワンカットごとに覚醒させられる感覚がある。ワンカットごとに終わり=死に向かっていく感覚がある。ジャン=リュック・ゴダールの映画には、常に死の予感が付きまとっている。ミシェル・ポワカール(ジャン=ポール・ベルモンド)の放つやぶれかぶれな言葉は、ボクシングのジャブのような軽快なリズムを獲得する。殴り書きされたような台詞のフレーズは、呼吸を早めるようなジャンプカットと組み合わさり、飛躍に飛躍を重ねていく。ミシェルは確実に死に向かっている(望んでいる?)。しかしミシェルは、死へ向かう速度と同じくらいのロマンティックな熱量でパトリシア(ジーン・セバーグ)という、小さなアメリカ人女性に夢中になっている。パトリシアのことが頭から離れない。「パ、パ、パ、パトリシア~」。ミシェルは、軽快に歌いながら車を運転する。
ゴダールは撮影に入る前に作品の構想を語っている。「死について考える少年と、死について考えない少女の物語だ」。ゴダールの長編デビュー作『勝手にしやがれ』(60)は、相反する2人の若者が、相反する2つの感情に、相反する速度で引き裂かれていく。そこに映画作家自身の若さが加わっている。向こう見ずな若さは、この映画の最大のエンジンである。しかし、それは壊れたエンジンなのかもしれない。

『勝手にしやがれ』(c)Photofest / Getty Images
『勝手にしやがれ』は、失うものがない映画監督と、破産寸前のプロデューサーが手を組んだ作品である。ヌーヴェルヴァーグの仲間であるクロード・シャブロルは、『美しきセルジュ』(58)と『いとこ同志』(59)で既に成功を収めていた。1959年のカンヌ国際映画祭では、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59)が旋風を巻き起こしていた。1959年のカンヌ国際映画祭の開催中、ゴダールは計画を実行する。カイエ・デュ・シネマ編集部の金庫から金銭を借り、カンヌ行きの列車に乗る。トリュフォーに脚本の提供を依頼する。映画祭に参加していたプロデューサー、ジョルジュ・ド・ボールガールにその場で売り込む。トリュフォーとシャブロルは、即座にボールガールに書簡を送っている。「私、フランソワ・トリュフォーは『勝手にしやがれ』の脚本に署名することに同意する。ただし、脚色と演出がジャン=リュック・ゴダールの名義であることを条件とする」。「私、クロード・シャブロルは『勝手にしやがれ』の芸術顧問に就任することに署名する。ただし、ジャン=リュック・ゴダールが監督を務めることを条件とする」。トリュフォーは破格の安さで脚本を売った。シャブロルによると、芸術顧問というクレジットはデタラメであり、名前を貸したにすぎなかった。ゴダールは、ヌーヴェルヴァーグの友情に感謝の言葉を残している。
もっとも興味深いのは、ゴダールが脚本に加えた決定的なアイデアである。トリュフォーとシャブロルが脚本を構想している時点では、どうやってミシェルがパリでパトリシアを発見するのか、意見を一致させることができなかったという。ゴダールは“ヘラルド・トリビューン紙”というアイデアを加えている。パトリシアが“ヘラルド・トリビューン紙”に勤め、シャンゼリゼ通りで新聞を売り歩いているというアイデア。『勝手にしやがれ』という映画を永遠の宝石にする、決定的な発明だ。セシルカットのパトリシア=ジーン・セバーグによる「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン!」という声は、未来永劫にシャンゼリゼ通りに響き続けることになる。