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『女は女である』ヌーヴェルヴァーグの幸福な季節へ花束を

(c) 1961 STUDIOCANAL - Euro International Films,S.p.A.

『女は女である』ヌーヴェルヴァーグの幸福な季節へ花束を

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ネオリアリズム・ミュージカル



 卵を落としたアンジェラは泣き、そして笑い始める。「笑っていいのか、泣いていいのか」というアンジェラの台詞には、『女は女である』という映画の二重性がよく表わされている。本作は喜劇であり、同時に悲劇でもある。ゴダールは、“ネオリアリズム・ミュージカル”というコンセプトに掲げていた。撮影監督のラウル・クタールは、ロケ地となった冬のサン=ドニ地区が、色鮮やかな街ではなかったことを語っている。冒頭でアンジェラが纏っている白いコートは、灰色がかった街の色の中で、その白さを際立たせている。アンジェラの赤い衣装とエミールの青い衣装、そして真白な壁。原色が際立つ室内の色彩、デザイン、フィクション性とは対照的に、冬のサン=ドニの路上の風景には色の少なさやドキュメンタリー性が際立っている。フィクションのすぐ隣にドキュメンタリーがある。フィクションの背面にドキュメンタリーがある。21世紀ゴダールの傑作『アワーミュージック』(04)等、彼の作品を貫く“正面と背面”の問題が浮上する。アンジェラとエミールが住むアパルトマンは寂れており、隣の部屋に住む女性は売春をしている。


 アンジェラ=カリーナと観客が交わすウィンク。カフェに寄ったアンジェラは、去り際にカメラに向かってウィンクをする。アンジェラは、彼女に思いを寄せるアルフレッド(ジャン=ポール・ベルモンド)と職場である劇場の前で遭遇する。遅刻しそうなアンジェラは、冷ややかな態度でアルフレッドに対応する。アンジェラが「故にわれ在り、かしら」という言葉を残して去っていくとき、アルフレッドはカメラ目線で「と言って(彼女は)去る」という、ト書きのような言葉を加えることで、第四の壁が突破される。アンジェラとアルフレッドのフィクション性が強調され、スクリーンを見つめる観客の存在が意識される。(『アステロイド・シティ』(23)以降のウェス・アンダーソンが、この手法にこだわっているのは興味深い。近年のアンダーソンの映画に、ゴダール映画の美学との近さを感じるからだ)。



『女は女である 4K修復版』(c) 1961 STUDIOCANAL - Euro International Films,S.p.A.


 フィクション・ドキュメンタリー性は、アパルトマンのセットにも及ぶ。むしろ止むを得ない事情による偶然が、本作のテーマを尖鋭化させ、ゴダールの造形的な才能を爆発させたきっかけとなっている。当初ゴダールは、サン=マルタン通りを見下ろす実際のアパルトマンで撮影する予定だった。契約は進んでいたものの、その部屋に住む老夫婦は、最終的に拒否してしまう。エミールが自転車を漕いで回るスペースのある部屋。撮影開始予定日が近づく中、ゴダールはその部屋そっくりのセットを作ることを決意する。こうしてゴダールにとって初めてのスタジオ撮影が始まる。ところがゴダールは、スタジオ撮影の利便性をことごとく排除していく。あえて制限を設けていく。可動式の仕切り壁等は使用しない。実際の部屋と同じように天井を作る(「天井がなければアンナは演技できない」とゴダールが主張したそうだ)。『勝手にしやがれ』(60)における、あの狭いホテル・ド・スエード12号室のように制限だらけである。しかし、クタールは困難な撮影に強いカメラマンだ。


 スタジオ撮影とネオリアリズム。ゴダールのクリエイティビティは制限や矛盾の同居によって、むしろ加速されていく。それほどまでに『女は女である』の室内撮影は創意工夫の宝庫である。室内撮影を豊かにする手本ともいえる。アンジェラとエミールの子供のような多動性、ラジオのサッカー中継の音声をバックに、ホウキをクリケットのようにしてパントマイムを披露するエミール(流れるような撮影!)、シェードの付いた照明器具を帽子のようにして部屋中を歩き回るアイデア、青白赤のトリコロールによる色彩の爆発、そしてアンジェラの小動物的で即興的で予測不能な仕草、ポージングが、スナップショットやスケッチのように撮られること。ゴダールはカリーナとのプライベートのエピソードを盛り込むことで、カリーナの緊張を解いている(撮影初日のカリーナは、緊張に襲われ膝がガクガクに震えていたという)。これほど画面を豊かにするアイデアがあるものなのかと、驚かされる。『勝手にしやがれ』のホテル・ド・スエード12号室で恋人たちによって繰り返された、静止と多動、ポージングとミラーリングの拡大バージョン。ここには更に“沈黙”というアイデアが、遊び心いっぱいのカメラワークと共に加わっている。


 ゴダールは『女は女である』をミュージカルではなく、「ミュージカルのアイデア」と呼んだ。ミュージカルを構成する“要素”そのものを撮るということなのだろう。「ライツ、カメラ、アクション!」という呼びかけで始まる本作の冒頭が、このテーマを示しているといえる。ジャック・リヴェットは、本作を“ピカソ的”と称賛した。ゴダールとクタールは、本作のカラー撮影を、後に制作される『軽蔑』(63)や『気狂いピエロ』(65)、『ウイークエンド』(67)や『中国女』(67)といった目も眩むような傑作群の“下書き”と捉えている。それらの傑作群と比べたとき、『女は女である』は異例の作品であり、過渡期の作品といえるのかもしれない。しかしこの作品における“色彩の実験”は、ゴダールに多くのものをもたらしたことは明らかだ。それはゴダールが、ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』(64)の色彩設計に衝撃を受ける以前の話である。





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