“同情のための善良な弱者”と設定しない
マカベーアは、教育を受けたり最低限のマナーを覚える機会すら与えられなかった。共同の下宿施設で、ベッドの下に用意した“おまる”を、トイレが遠いからなのか、夜間に排尿に使用するシーンがある。何人もが寝ている共同の寝室の中でだ。そこは同室の者たちも同様なのかもしれないが、排尿している瞬間に、食べ残していた骨付きチキンを頬張り始める行動に至っては、さすがに奇異だと思わざるを得なくなってくる。また別の場面では、地下鉄の車内でたくましい男性の脇の匂いを嗅いだことで、その夜にやはり共同の寝室で自慰行為を始めるのである。
感情移入どころか観客の眉をしかめさせかねないマカベーアの行動の数々は、彼女に対する観客の心理的距離を作る原因となっているかもしれない。しかし、ここでは彼女をそのように描くことこそが重要だったのではないか。排尿しながらチキンを食べ、自分の欲望を満たす…。そうした自分本位といえる彼女の振る舞いは、彼女を、役割を持った映画のキャラクターではなく、一人の人間として立ち上がらせる。つまり彼女は、“観客の視線”や既成概念から、かなりの部分で自由だといえるのだ。

『星の時 4K』
欲望も愚かさも抱えた一人の女性を、美化することなく描く。第36回ベルリン国際映画祭において、マカベーアを演じたマルセリア・カルタッショが女優賞を受賞したのは、映画のヒロインではなく、人間そのものを演じたところにあるのだろう。女性であり弱者でありながら、マカベーアは“同情のための善良な弱者”として設定されていないのである。そしてその姿勢はわれわれ観客に、“弱者は観客に好かれるように描かれなければならないのか”、“弱者は正しく好かれるような生き方をしなければならないのか”という、カウンターを見舞うのだ。
しかし、こうした取り組みは近代文学では全く珍しくない。文学では、主人公を正しい人間や好感の持てる人間にする必要はない。むしろ矛盾や自己欺瞞を抱えた人物だからこそ、心を寄せられる場合も少なくない。こうした基本的なアプローチの違いは、心理描写を得意とする“文字表現”と、動作や仕草を描写することを得意とする“映像表現”の性質の違いからきている部分もありそうだ。
その意味で本作『星の時』は、小説版の突き放した姿勢をリスペクトした、“文学的”な内容だともいえる。だからこれは、人類が描いたことのない新しさというより、文学的な人間観をそのまま映画に持ち込んだ試みが新鮮だったのであり、それは現代でも十分有効だということを示していると考えられる。本作は、“救済されるべき弱者”を描いた映画ではなく、“救済されるにふさわしいと社会が思えない人間にも、人生がある”ことを描いた映画だといえるのだ。