自分の人生を直視しない理由
マカベーアと知り合う男性、オリンピコ(ジョゼ・ドゥモン)についても同様だ。彼は終始不誠実で、マカベーアに悪態をつき続け、より条件が良いと考える女性に乗り換えようとする。観客から見れば、当然かなり不快な人物だ。しかし映画は彼を単純なクズ男にしていない。彼自身も貧しい地方出身者で、社会的に上昇したいという欲望を持っていながら、それが叶えられないことでマカベーアと同じ痛みを経験することとなる。オリンピコもまた、自分の人生を思い通りにできない、“観客の同情を拒む弱者”に他ならない。
確かに本作には、そうした弱者たちの悲劇を並べることで、社会や運命の残酷さを強調している。その裏に、ある種のサディズムがあるのではないかと疑問を持つ部分もないではなく、皮肉なユーモアとして設定しているようにすら思える。しかしスザーナ・アマラウ監督は、それを人間への冷笑として撮っているわけでもないだろう。登場人物を救済しないまま、どこか親近感を持って見つめている。この絶妙な二重性によるバランスが、本作と観客に適切な距離を与え、同情の手前で思考させ続けるのではないか。そう考えれば、この映画が傑出していると感じられる理由が分かってくる。
もう一つ重要な論点は、マカベーアが“自分の人生を直視していない”という部分だ。しかし、それを単純に、オリンピコがそう考えたように、彼女が単に頭が悪く無知だからと捉えるべきではないだろう。これは、彼女が現実を見ようとしないことで、耐え難い現実に耐えているという“防衛反応”と考えられるのだ。自分がどれほど貧しいのか。なぜ他人から大切にされないのか。自分が社会の中でどれほど弱い立場なのか…。そういうことを真正面から理解してしまえば、彼女は自分の人生を生きることが難しくなる。

『星の時 4K』
だから彼女はラジオの雑学に逃げ、自分自身については積極的に考えようとしない。彼女がラジオの話を続けるのは、自分自身について語ることができない人間が、自分の外側にある情報を語ることで、他人とつながろうとしているという、悲しい構造があるのだ。そしてその構図は、われわれも無関係ではないだろう。多くの人々が、自分の見たくない部分や都合の悪い部分、社会の一部について“見て見ぬ振り”をして、自分とは関係のない安全な領域の話題を選びがちなのではないか。
そう考えれば、占い師の言葉に有頂天になったマカベーアの運命には、意地悪なユーモア以上の意味が発生することになる。自分の姿を直視すること、世界や社会を逃げずに直視すること。それはときに辛いことだが、自分や周囲を見回すことができなければ、人間はいつか大きな破綻を迎えることになる。しかし、そうして誤った方向へと走り出す彼女の愚かさを、本作『星の時』は、やはりただ突き放さない。救済せずに、運命ごと“彼女の星”を抱きしめているのである。そして、そうした姿勢から生まれる距離感が、我々にまたも考え続けることを促すのだ。
文:小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
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新宿武蔵野館、 Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次公開中
配給:alfazbet