そして色になる
ジュリアーナ夫婦は、コラドや仲間たちと共に港の近くにある小屋へと向かう。この小屋には赤いペンキで塗装された部屋がある。この官能的で優れたシーンは、直接的ではない“乱交”を想起させるという点において、『欲望』のモデルをカメラに収めるエロティックなシーンや、『砂丘』(70)の幻想シーンのプロトタイプともいえる。『砂丘』の幻想シーンが、前衛劇団が演じる亡霊の“ダンス”だったように、『赤い砂漠』の俳優の動きが緻密に計算された小屋のシーンも、カメラと俳優が織りなす“ダンス”といえる。コラドは木造の小屋の壁を破壊して、火にくべる薪の代わりにする。愉快に罪を犯す人を目の当たりにするようなスリルがある。このシーンがさらに優れているのは、まるで船の中にずっといるような奇妙な感覚が生まれているところだ。目の前を通り過ぎる貨物船ではなく、小屋自体が船となる。ジュリアーナは言う。「ずっと揺れ動いている。ずっとよ」。しかし、ジュリアーナの“難破船”が動くことはない。

『赤い砂漠 4K修復版』(c) 1964 RTI
ジュリアーナは囚われの女であり、人生の遭難者だ。小屋が“難破船”であることは、この映画の方向感覚や遠近感の欠如と関わっている。混乱状態にあるジュリアーナは、コラドの泊まるホテルに身を寄せる。このシーンのヴィッティの演技とカメラワーク、編集には身震いするような鋭さがある。ここでもジュリアーナは壁を見つめている。そして言葉を紡ぎ、加速するように幻想の世界へと突入していく。ヴィッティは、緩急をつけながらジュリアーナの得体の知れない不安を浮かび上がらせていく。カメラはジュリアーナの不安定な挙動を追いかける。編集はジュリアーナが静止した瞬間を起点とすることで、彼女の予測不能な動きがより際立っている。目の前に相手がいるにも関わらず、ほとんど一人芝居のモノローグのように見えるこのシーンは、ヴィッティの一世一代の演技といえる。ヴィッティは空間を切り裂く。空間自体にサスペンスを召喚している。ジュリアーナは小さな声で「助けて」と言う。コラドはジュリアーナを抱こうとするが、その行為によって彼女が救われることは決してないだろう。そして彼女は、冬の夜の波止場へと逃げる。言葉の通じない外国人の船乗りに、「すべての出来事が私の人生だってこと」と告白する。再び、モノローグが始まる。しかし今度のモノローグは、ジュリアーナの決心であり、宣言ともいえる、力強いモノローグである。
アントニオーニは、赤や緑、黄色や灰色といった色彩の断片をクローズアップすることで、感情や不安を拡大する(ブローアップする=『欲望』の原題)。『赤い砂漠』の色彩とは感情のことであり、最高の俳優が一世一代の演技で色彩=感情を表現している。ヴィッティは後年に振り返っている。「私はただの色になった」のだと。
*「Michelangelo Antonioni: The Investigation 1912 – 2007」 Seymour Chatman, Paul Dancan
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
『赤い砂漠 4K修復版』
「ミケランジェロ・アントニオーニ レトロスペクティヴ 愛の不毛、彷徨える魂」
シアター・イメージフォーラム他全国開催中
配給:ザジフィルムズ
(c) 1964 RTI