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『アミスタッド』映像の魔術師は、なぜ言葉を選んだのか

(c)Photofest / Getty Images

『アミスタッド』映像の魔術師は、なぜ言葉を選んだのか

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「Give us free!」



 映画の最初の約20分、英語はほぼ聞こえない。字幕もろくにない。あるのは嵐、稲妻、鎖、刃、そして血だけ。「私は常に映像の力を信じており、絵で物語を語れると信じてきました」(*3)とスピルバーグは語る。このイントロダクションは、まさにその信念を100%の純度で結晶させたものだ。


 実際、『ジョーズ』(75)、『未知との遭遇』(77)、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)、『E.T.』(82)、『ジュラシック・パーク』(93)と、スピルバーグを世界的巨匠に押し上げたのは、台詞ではなく視線と運動だった。何かを見上げる子供の顔。暗闇で光る目。水面下を進む影。言葉が届くより先に、カメラと音楽が観客の心をわしづかみにする。


 その非言語の演出が頂点に達するのが、シンケの回想として挿入される奴隷船のシーンだ。航海の途中、積み込んだ食料が足りないとわかると、奴隷商人たちは“積み荷”を減らすことで帳尻を合わせようとする。鎖で数珠つなぎにされた人々に重石がくくりつけられ、まとめて海へと突き落とされていくのだ。この阿鼻叫喚を、スピルバーグは容赦なくフィルムに刻みつけた。


 ところが映画は後半、一転して言葉の世界へと舵を切る。クライマックスで映画の主役となるのは、ジョン・クィンシー・アダムズ(アンソニー・ホプキンス)による長大な弁論。キャリアの頂点にいた作家が、あえて自分の得意技を封じたのだ。



『アミスタッド』(c)Photofest / Getty Images


 なぜスピルバーグは、映像ではなく言葉を選んだのか。それは『アミスタッド』が、そもそも言葉をめぐる映画だからだ。弁護士ボールドウィン(マシュー・マコノヒー)とシンケのあいだには、言葉という巨大な壁が立ちはだかり、互いの言うことがまったく通じない。その意味で、これは『E.T.』と同じファーストコンタクトの物語でもある。


 ただし今回、異星人の側に立たされるのは観客のほう。アフリカ人たちは片言の英語ではなく、母語であるメンデ語で語り、観客は字幕を通してその言葉を受け取る。彼らの目を通して見ると、コネチカット州ニューヘイブンは文明国どころか、理解不能なトンデモ異世界にしか見えない。


 本作のコンサルタントを務めたヘンリー・ルイス・ゲイツ・Jrは、この選択を「ハリウッドが通常やるように、シンケやその仲間たちには『ハロー、白人さん』のような片言の英語を無理やり話させるのではなく、彼ら自身の言語で話させています」(*4)と語る。自分たちの言葉で語ることを許されたとき、彼らは「アフリカ人」というひと括りのラベルを剥がされ、ひとりひとりの顔と声を取り戻す。


 そして最後に、その言葉は壁を越えようとする。脚本家デヴィッド・フランゾーニは、企画の初期段階で「最も重要なのは、シンケ自身が自らの弁護に参加することです。白人が黒人を救うという構図にしてはいけません。それではこの企画の意義そのものが台無しになります」(*5)と訴えたという。その意志がもっとも鋭く表れるのが、法廷でシンケが立ち上がり、覚えたての英語で 「Give us free!」と叫ぶ場面だ。


 文法的には間違っている。だが、だからこそ胸を打つ。誰かに翻訳され、整えられる前の、生身の欲望がそこにあるからだ。完璧な映像を操る職人が、不完全な言葉にすべてを賭ける。だからこそ我々の胸を熱く震わすのだ。





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