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ヒッチコック唯一の3D映画『ダイヤルMを廻せ!』から読み解くヒッチコックと3Dの関係

ヒッチコック唯一の3D映画『ダイヤルMを廻せ!』から読み解くヒッチコックと3Dの関係


『ダイヤルMを廻せ!』の企画の背景



 元々ヒッチコックは、プロデューサーのシドニー・バーンスタインと共同で設立したトランスアトランティック・ピクチャーズにおいて、デイヴィッド・ダンカン(*4)が1948年に執筆した小説「The Bramble Bush」(*5)の映画化を計画した。だが予算が掛かり過ぎることから、制作は暗礁に乗り上げる。そして『ロープ』(48)や『山羊座のもとに』(49)が興行的に失敗し、会社は破産してしまった。その後ワーナー・ブラザースと契約し、『舞台恐怖症』(50)、『見知らぬ乗客』(51)、『私は告白する』(53)などを成功させ、完全に勢いを取り戻す。


 ヒッチコックはワーナーとの契約が1本残っていたために、棚上げしていた「The Bramble Bush」を提案した。だがワーナー側は、共産主義活動家が警察から逃亡するという政治色の強い内容のため反対し、代わりにブロードウェイで話題になっていたフレデリック・ノット(*6)作の舞台「Dial M for Murder」の映画化を提案してきた。


 この当時のワーナー・ブラザースは、反トラスト法の影響による経営難から、1953年にバーバンクの広大なスタジオを売却するという事態に直面していた。そして半年間の閉鎖を経て、スタジオの経営権を手にしたジャック・ワーナーが再開に当たって打ち出した方針は、全作品のカラー/3D/立体音響化だった。元々ヒッチコックは、この映画を白黒の2Dで撮るつもりでいたから、上からの命令は寝耳に水だったろう。そもそもカラーと立体音響は理解できるが、なぜ3Dも必要だったのだろうか。




 その背景には、1950年ごろから急速に普及し始めたテレビの影響があった。実際に米国内で販売されたテレビセットは、1946年が1万台だったのに対し、1953年には2,123万4000台にも達している。こういった動きに反比例するように、映画館への入場者は減っていき、1946年に対し1953年には約半分にまで落ち込んでいた。ワーナーに限らず、ハリウッドの各スタジオはこの状況に強い危機感を覚え、何らかの緊急対抗策を必要としていたのだ。(4,5)


*4 デイヴィッド・ダンカンは、日本では映画の脚本家として知られており、代表作には『タイム・マシン/80万年後の世界へ』(60)がある。



*5 「ある男が他人のパスポートを盗んで、うまく利用しようと企むが、そのパスポートの持ち主が殺人罪で手配されていたため、逆に災難に巻き込まれる」(2)というストーリーだったそうである。ちなみにワーナー・ブラザースは、1960年に同名の作品(邦題: 許されざる愛情)を映画化しているが、まったく別の原作である。


*6 フレデリック・ノットは、テレンス・ヤング監督の『暗くなるまで待って』(67)の原作者でもある。ノット自身は3Dに肯定的で、「制作は『肉の蝋人形』の直後だったんですよね。僕自身は、ぜひ3Dでも観てみたかったのに、叶わなかった。『3D用のメガネで頭痛が起る』という苦情が多かったかららしいのですが、よく分からないんです。僕自身は、頭が痛くなったりはまったくしなかったので」と述べている。ちなみにこのコメントが掲載されたノットの戯曲の邦訳「ダイヤルMを廻せ!」(6)の、町田暁雄氏による解説には、ワーナーが映画化権を取得するまでの紆余曲折や、様々な再映像化の話、『刑事コロンボ』に与えた影響などについて書かれており、非常に面白い。



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