(c)1997 Warner Bros., Monarchy Enterprises B.V. and Regency Entertainment (USA) Inc. All rights reserved.
『ダイヤルMを廻せ!』ヒッチコックは意外にも新技術好きだった!?
『ダイヤルMを廻せ!』あらすじ
元テニス選手のトニー(レイ・ミランド)と資産家の娘マーゴ(グレース・ケリー)は一見仲の良い夫婦であったが、夫婦仲は冷めており、マーゴは推理作家マーク(ロバート・カミングス)と不倫の恋に陥っていた。それを知ったトニーはマーゴの殺害を企て、旧友レズゲート(アンソニー・ドーソン)の弱みにつけこんでマーゴの殺害を依頼する。しかし襲われたマーゴがとっさにハサミでレズゲイトを殺害してしまう。その事故に機転をきかせたトニーは、その事件を正当防衛ではなく、動機ある殺人となるように仕向けるのだった・・・。
Index
- 本当にヒッチコックは3Dを嫌っていたのだろうか?
- ヒッチコックはどうやって技術的知識を身に付けたのか
- 『ダイヤルMを廻せ!』の3D演出術
- 舞台演出との違い、色彩設計、カメラによる制約など
- 3D版の一般公開と、ソフト化の変遷
本当にヒッチコックは3Dを嫌っていたのだろうか?
『ダイヤルMを廻せ!』の3D公開が中止された当時、ヒッチコックは「(3D映画は)ナインディズ・ワンダーだ。そして9日目がやってきた」(1)とコメントしている。「ナインディズ・ワンダー」とは、「驚きは9日間しか続かない(一時的に大騒ぎされるが、すぐに忘れ去られる出来事)」という意味のことわざで、ドタバタした混乱状態に振り回されての2D公開に皮肉を込めたのだろう。
ではヒッチコックは、会社の命令だから仕方なく3Dに取り組んでいたのか。あるいは評論家ドナルド・スポトーの言うように、「3D映画の奇態なからくりに屈するのを拒んだ」(2)のだろうか。
一般に巨匠とされている人物は、テクノロジーに保守的なイメージがある。おそらくサイレントにこだわったチャップリンや、なかなかカラー映画を作らなかった黒澤明の影響だと思われる。だが実際のヒッチコックは、誰にも増して新しい技術を用いることに積極的だった。
『ダイヤルMを廻せ!』(c)1997 Warner Bros., Monarchy Enterprises B.V. and Regency Entertainment (USA) Inc. All rights reserved.
ヒッチコックとニューテクノロジー
例えば、『リング』(27)や『恐喝(ゆすり)』(29)、『暗殺者の家』(34)、『三十九夜』(35)では、シュフタン・プロセス(*1)(3,4)を用いてセット・エクステンションを行い、同じく『恐喝(ゆすり)』ではヨーロッパ初のトーキー(*2)を成功させている。『海外特派員』(40)では、紙で作ったリア・プロジェクション用スクリーンを大量の水で破って、海上に墜落する飛行機のコックピットを主観で描いた。(4)
他にも疑似ワンカット撮影に挑戦した『ロープ』(48)や、『ヒッチコック劇場』(55~65)のテレビ界進出、『めまい』(58)のタイトルバックのモーション・グラフィックス(*3)やドリーズーム(*4)、『北北西に進路を取れ』(59)のビスタビジョンによるオプチカル合成(*5)、『鳥』(63)の特殊音響効果(*6)や視覚効果(*7)など、様々な分野において革新的な技術やメディアに挑戦してきた。
*1 シュフタン・プロセス(3,4)は、ドイツのオイゲン・J・シュフタンが1922年に特許を取得した合成技術。まず、一部分だけ作ったセットの前にカメラを構え、45°の角度でレンズ前に表面反射鏡を置き、直交する場所にセットの欠けた部分を補う絵(または実景や写真、ミニチュアなど)を配置する。そして表面反射鏡の一部の銀メッキを、硝酸を含ませた布で擦り剥がして素通しにし、セットと絵を同時にフィルムに焼き込む。これならばマットペインティングと異なり、監督やカメラマンも撮影現場で効果を確認でき、仕上がりも驚くほど自然になる。ヒッチコックはスタジオの無理解を押し切って、ドイツ以外の国で最初にこの技術を導入した。絶滅した技術のように思われがちだが、『ポルターガイスト2』(86)や『エイリアン2』(86)などにも使われている。
*2 『恐喝(ゆすり)』に用いられたトーキー・システムは、1928年にRCAが開発した「フォトフォン」で、フィルム上に記録された帯の幅を変化させる可変領域方式のサウンド・オン・フィルム方式だった。最初スタジオ側は、この作品をパートトーキーにするつもりだったが、ヒッチコックは最初からオールトーキーになることを考えて撮影していた。また彼は、「ナイフ」という言葉だけが繰り返し強調される演出を行っている。(4)
*3 『めまい』のタイトルバックは、後のCGやモーション・グラフィックスのルーツとなった重要な映像である。ソール・バスがタイトルデザインでクレジットされているが、実際のフィルム制作は実験映画作家のジョン・ウイットニー・シニアが担当していた。ウイットニーは、第2次世界大戦の戦艦に取り付けられていた対空機銃制御用のアナログ・コンピューターをジャンク屋から購入し、アニメーション・スタンドのモーション・コントロールに用いて、幾何学的な映像を実現させている。(5)
*4 ドリーでカメラを前進させながら、ズームレンズで引いていく(もしくはその逆)ことで、画面のサイズは保ちながら画角だけが変化していく手法。ヒッチコックが『レベッカ』(40)のころから構想し、ようやく『めまい』で実現させた。彼はこの場面を実現させるために、鐘楼の階段のミニチュアセットを横向きに作っている。(4)また『マーニー』(64)でも同様のテクニックが使用された。
*5 『十戒』(56)の視覚効果を手掛けたジョン・P・フルトンは、紅海が割れるシーンの合成用に、ハワード・アンダーソン・スペシャル・フォトグラフィック・エフェクト・カンパニーに、通常の倍の面積である35mm 8パーフォレーションのビスタビジョン・フォーマットで作業を可能にする、特別なオプチカル・プリンター(通称アンダーソン・プリンター)の開発を依頼した。
その後この機械は、パラマウントの倉庫に仕舞われていたが、ヒッチコックが『北北西に進路を取れ』に完璧な合成を要求したため、3年振りに使用された。だがパラマウントは、高コストであるビスタビジョン・フォーマットの廃止を決定し、再び仕舞い込まれてしまう。
そして16年後の1975年になり、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(77)のためにアンダーソン・プリンターを買い上げ、以後1993年までILMで使用された。現在はサンフランシスコにある、ルーカスフィルムのレターマン・デジタルアート・センターの見学コースで展示されている。(6)
*6 ヒッチコックは『鳥』に音楽を一切使用せず、代わりに鳥の鳴き声や羽ばたき音などで構成することを決めた。そこで、これまで彼の映画音楽を担当してきたバーナード・ハーマンの監修で、初期のシンセサイザーであるトラウトニウムという電子楽器を用いて、これらの音を作成することにした。(4)この作業を担当したのは、トラウトニウムの開発にも係わった演奏者のオスカー・ザラと、作曲家のレミ・ガスマンである。
*7 『鳥』の視覚効果は、基本的にユニバーサル・スタジオのアルバート・ウィットロックやロズワルド・A・ホフマンが手掛けたが、鳥の合成がきれいにできないことが問題となった。激しく羽ばたく翼は、モーションブラーで半透明になっているのだが、通常のブルーバック・プロセスでは、2値化された汚いギザギザになってしまうのである。そこでヒッチコックは、ウォルト・ディズニー・スタジオのアブ・アイワークスとボブ・ブロートンに依頼し、特別に困難なショットをナトリウム(英語圏ではソディウム)・プロセス(7)で処理してもらった。
ナトリウム・プロセスとは、波長589.6nmに鋭い輝線スペクトルを持つナトリウム灯の黄色い光で白いスクリーンを照明、マルチコーティングを施したビームスプリッターを内蔵し、2本のフィルムが装填できる特殊カメラを用いるもので、撮影と同時に精密でグラデーションを持ったマットが抽出できる。当時この技術が使えたのは、英国のランク・フィルム・ラボ(8)と、米国のディズニーの2社だけだった。
だがアイワークスは、視覚効果の作業量が多過ぎると判断し、ハリウッド中のスタジオに分散させることを提案した。そこで『ベン・ハー』(59)の合成を手掛けたMGMのロバート・R・ホーグや、『クレオパトラ』(63)を手掛けた20世紀フォックスのL・B・アボットにも協力を求めている。このように複数のスタジオでVFXを分担するやり方は、最近でこそ珍しくなくなったが、この時代では極めて異例なことだった。(7)