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ヒッチコック唯一の3D映画『ダイヤルMを廻せ!』から読み解くヒッチコックと3Dの関係

ヒッチコック唯一の3D映画『ダイヤルMを廻せ!』から読み解くヒッチコックと3Dの関係


3Dに社運を賭けたワーナー・ブラザース



 そしてワーナーもこの流行に乗り、3Dを復活の象徴にしようと考える。そして他社の3D作品の多くが即席映画だったのに対し、しっかり準備を整えた上で、第1弾のホラー映画『肉の蝋人形』(53)を発表した。撮影にはナチュラルビジョンのリグを購入し、「ワーナービジョン」と銘打つ。さらに3チャンネル立体音響システムを導入して「ワーナーフォニック」と名付け、イーストマンカラーをベースとして自社現像所が開発した「ワーナーカラー」も採用した。結果として『肉の蝋人形』は、それまでの3D映画の興行成績を大きく塗り替える大ヒット作となる。


 この成功に気を良くしたジャック・ワーナーは、さらに3D映画22本のラインナップを発表。「コロラド・ビッカー島の戦い」を描いた『フェザー河の襲撃』(53)や、自社開発リグを用いたジョン・ウェイン主演の『ホンドー』(53)といった本格西部劇の他、低予算の『The Moonlighter』(53)などを次々と製作した。だがジャック・ワーナーは、1954年3月27日に封切られた『謎のモルグ街』の興行成績が不振だったことから3D上映に黄信号を灯し、同年9月25日公開の『賞金を追う男』を最後とした。




第1次3D映画ブーム終焉の原因



 3D映画をやめる動きは他社も同様で、1953年には世界で39本もの長編作品が作られたが、翌1954年には21本に減り、またその半数近くが2D上映のみだった(日本国内には1954年に3D映画が11作品輸入されているが、実際に3D上映されたのは2本だけに過ぎない)。さらに1955年にはたった3本だけ(国内では0本)となって、ブームは終了してしまったのである。


 この理由は「偏光メガネが煩わしい」「画面が暗い」「(直線偏光方式のため)首を傾けると立体視できなくなる」「60分を超える作品は、上映中にインターミッションが入る(連続上映には4台のプロジェクターが必要)」「上映中に左右のプロジェクターのシンクロがズレることがある」「左右のフレームが上下方向にズレることがある」「疲れる」「頭痛がする」「気分が悪くなる」「(生産が追い付かなかったことから)使いまわしの偏光メガネが不衛生」といった観客側の不満があった。


 また制作側の悩みもあり、「カメラ一式が大きくて重過ぎる上、撮影上の制約も多い」「3D効果をどう活かせば良いか分からない」「多額の予算が掛かる」などがあったが、何より強く求められた「テレビの脅威から逃れるための即効性」が思ったほどなかったことが大きい。


 その意味で3Dの最大のライバルとなったのが、ワイドスクリーンに展開された20世紀フォックスの「シネマスコープ」である。同社が『聖衣』(53)と『百万長者と結婚する方法』(53)の2作を発表するや否や、各スタジオは3Dから一斉にこちらへ乗り換えた。1952年から「シネラマ」方式が先行していたが、劇場を専用に建て替える必要があり、3台のプロジェクターを用いるなど、運営経費も膨大になってしまう。だがシネマスコープなら、既存の上映システムにアナモフィックレンズを取り付け、横長のスクリーンを用意するだけで良く、テレビとの差別化も明確である。さらに、20世紀フォックスへ支払うライセンス料を不要にするため、各スタジオ独自のワイドスクリーン規格が次々と開発されるに至り、3Dはすっかり忘れられてしまった。



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