「時間」の本質と映画の矛盾を突破する試み
「純粋持続」はフランスの哲学者、アンリ・ベルクソン(1859~1941)が唱えた概念だ。ベルクソンは「時間とは何か?」という問いに対してこの「純粋持続」という概念で応えようとした。
私たちは「時間」を過去から未来へと延びる一本の直線のようなものとしてイメージしていないだろうか。それは映画のフィルムによく似ている。フィルムには一コマごとに出来事が記録され、それが一コマ一コマ順番に映し出されることで動く、つまり時間が流れだす。フィルム上をいったりきたりすれば、時間をさかのぼったり、未来を見ることもできる。さらに、フィルムには、はさみで切れ目をいれることさえできる。
しかし、ベルクソンは時間をそのようにイメージすること自体大きな間違いだと指摘した。時間は例えるなら、川の流れのようなものであるという、川の流れは常に下流へと流れ、分断することも止めることもできない。川とは流れ続けること自体にその本質がある。つまり時間も流れ続けること=「純粋持続」すること自体に本質があると説いたのだ。ベルクソンはこの「純粋持続」にこそ人間の自由な生の源泉があるとも言う。
『サタンタンゴ』
しかし映画はそもそも時間をコントロールしようとする表現形式である。時間(フィルム)を任意の点で切断し、つなぎ合わせ、時に時間をジャンプし、時に時間を引き延ばして見せる。時間の流れを支配しようとするのが映画の本質の一つだとも言えそうだが、しかし一方でそれは「純粋持続」という時間の本質とは相いれない行為でもある。
タル・ベーラは、この時間の本質と映画という表現形式の矛盾に果敢にも挑んだのではないだろうか。映画の中で描かれる人々と生命そのものを、より生き生きと表現するにはどうすれば良いのか?それは映画の中に流れる「時間」を「純粋に持続させる」しかない。そのために長回しと移動撮影という手法が要請されたのではないか。監督が任意のポイントでカットを割ったりせず、役者や動物たちは動き続ける、そして川の流れのような移動撮影によって映像自体も運動(持続)し続ける・・・。
監督のタル・ベーラは自身の長回しについてこう語っている。「長回しのショットは、人生について何かを語ろうとするときに、より完璧なものに近づくことができる方法だと思っています」
『サタンタンゴ』予告
『サタンタンゴ』は人間の本質について、非常にアイロニックで悲観的な見解を提示している作品である。しかし、もしタル・ベーラの中にベルクソンの「純粋持続」にも似た考えがあったとしたら、映画そのものは、人間の真なる自由を希求する思いに貫かれているのかも知れない。かつて哲学者志望であったというタル・ベーラなら、筆者のこの妄想に完全に同意はせずとも、否定もしないのではないだろうか。
『サタンタンゴ』は見るものを挑発し、試すような映画であると思う。7時間と言う上映時間の中で、観客は映画を見るという行為そのものに向き合い、嫌が応にも時間の流れを意識する。そこで、何を思い、考え、解釈するか…。そんな行為へといざなう装置として高度に機能することこそ、本作の最大の魅力かもしれない。
取材・文: 稲垣哲也
TVディレクター。マンガや映画のクリエイターの妄執を描くドキュメンタリー企画の実現が個人的テーマ。過去に演出した番組には『劇画ゴッドファーザー マンガに革命を起こした男』(WOWOW)『たけし誕生 オイラの師匠と浅草』(NHK)『師弟物語~人生を変えた出会い~【田中将大×野村克也】』(NHK BSプレミアム)。
『サタンタンゴ』
2019年9月13日(金)よりシアター・イメージフォーラム、ヒューマントラストシネマ有楽町にて伝説のロードショー!
※2019年10月記事掲載時の情報です。