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『真実』是枝監督が、最大の敵「演技」を描くとき――新たな家族劇が生まれる

(c)2019 3B-分福-MI MOVIES-FRANCE 3 CINEMA

『真実』是枝監督が、最大の敵「演技」を描くとき――新たな家族劇が生まれる

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是枝監督特有の「透明性」に不可欠な要素とは



 では、是枝監督らしさとは何だろう? いま、現役で世界的に評価されている日本の映画監督たちは、例えば黒沢清、深田晃司、河瀬直美など、全員がはっきりとした作家性を持っている。黒沢監督であれば静かな“こわさ”、深田監督であれば日常に潜む“事件性”、河瀬監督ならば奈良という土地から立ち上る“土着感”だろうか。


 対して、是枝監督の作家性を一言で表現するなら、「透明性」といえよう。「同時代性」も「普遍性」も持ち合わせつつ、それらを究極的なまでに高純度化した“無風”の世界――そこではちょっとした感情の揺れがさざめきとなり、大きな波紋を広げていく。


 監督がドキュメンタリー出身という点も大きいだろうが、彼の作風を「リアル」という言葉で評するのはいささか野暮だ。是枝作品にあるのは、「リアル=現実的」な世界ではなく、「現実」そのものなのだから。『そして父になる』も『万引き家族』もフィクションではあるのだが、作り物らしさが異常に希薄だ。ラブドールが心を持った『空気人形』(09)でさえ、我々が生きている「いま、この場所」と地続きに感じられてしまう。


『万引き家族』予告


 そのような質感をもたらしている要因は複数あるだろうが、大きいものは「演技」だろう。ここでいう演技とは、演技を「する」ではなく、演技を「しない」でもなく、「演技をしていないと錯覚する状態にまで高める」ものを指す。


 有名な話だが、是枝監督は子役には脚本を渡さず、撮影前にシーンの内容を説明する形を好む。この方法論は近作では子役以外にも要所要所で適用されており、予定調和ではない演者の新鮮な「反応」を映しとってきた。


 しかしこのアプローチは、裏を返せば「役」と「演者」がくっきりと重なっていなければ成立しない。役の思考をトレースするのではなく、演者自体の思考回路が役に置き換わる感覚だ。故に、是枝作品で重要なのは脚本といっていい。脚本に役者自身の経験や思考を刷り込み、彼らが役へと到達する道筋を舗装するのだ。前述したように『真実』でも役者たちとの対話が行われ、役と演者を近づけるプロセスが組まれた。



『真実』(c)2019 3B-分福-MI MOVIES-FRANCE 3 CINEMA


 そのため、是枝監督の現場では毎日のように脚本に手が加えられるという。役と役者の境目を無くすための作業が、常に行われているからだ。現場での役者の何気ない一言や動きにヒントを得たり、実際にシーンを撮っていく中で気づきを得たり……監督が役者を理解して物語を整え、その結果役者が役に近づき、役者本来の「自分」というものがなくなっていくまで、試行錯誤が続けられる。


 『真実』ではビノシュが「役を落とし込むのに3週間かかるから、前日に台本を直して当日渡すことはやめてほしい」とリクエストしたそうだが、見事に約束は破られたという。



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