「家族」というテーマへの逆説的アプローチ
『真実』で重要なのは、「演じる」こと自体の探求を行うだけでなく、「なぜ?」にまで踏み込んでいること。女優という職業の主人公を通して、「人はなぜ演じるのか?」、さらにもう一段階進んで「人はなぜ繕ってしまうのか?」を描こうとしている。
どうして人は自分を偽り、都合よく演出してしまうのだろうか。時には記憶さえも改ざんし、自分が見たいように脳を騙してしまうのだろうか。ここで、是枝監督の作品に共通するモチーフ、「家族」が効いてくる。
『誰も知らない』(04)、『そして父になる』、『海よりもまだ深く』(16)、『万引き家族』など、是枝監督は一貫して家族を描き続けてきた。これらの映画では、家族が「安心」や「休息」の意味を持ち、「自分らしくいられる」場所として存在していた。『そして父になる』はその前提の上で、親子に血が繋がっていなかったという試練を与えるものであり、『万引き家族』は他人同士でも家族の絆を構築できる、という事例を示していた。
しかし『真実』においては、「家族」が安心できる場所として描かれない。むしろ久々に会ったファビエンヌとリュミールは揉めに揉め、さらにはお互いが自分を偽って「良い恰好」をしてしまう。面と向かって攻撃しあっているようで実はそれぞれが防御しており、容易に手の内をさらさない。家族でありながら、いや家族だからこそ生まれるディスコミュニケーションを映し出している。
戯曲発祥の家族劇、という点では、是枝監督以外の近年の作品ならば、グザヴィエ・ドラン監督作『たかが世界の終わり』(16)やメリル・ストリープとジュリア・ロバーツが親子を演じた『8月の家族たち』(13)などが挙げられるが、これらの作品の登場人物は割と「素直」だ。『たかが世界の終わり』の主人公は、家族に“真実”を打ち明けられず苦悩するが、根本には理解されたいという想いが流れている。
『たかが世界の終わり』予告
だが『真実』の母娘は、プライドや怒りといった感情が邪魔をして、相互理解の“願い”そのものを妨げる。演じるという行為に「逃げてしまった」母娘は、虚勢の裏で自分たちの本音を見せることに恐れを感じている。リュミールにとっては母を憎もうとすることがある種の「支え」であり、ファビエンヌもまた、「こうあるべき」という自分を演じることで家庭の内外の均衡を保ってきた。しかし、自伝本の出版やサラの後継者と噂される新進女優の台頭という“事件”を経て、2人は長年避け続けてきた「家族」と向き合わなければならなくなる。
ここで、本作は是枝監督が今まで描いてきた「家族」像に立ち戻ってゆく。家族は本来、安息の場所である――という考えにファビエンヌとリュミールがたどり着いたとき、2人はようやくお互いを認め合い、「真実」に向けて歩き始めるのだ。
母はなぜ「わがままな女優」を演じるのか? 娘はなぜ「常に怒る姿」を演じるのか? 自明だからこそ、目を背けてきた答え。「愛がため」だ。本当は大切に思いあっているのに、そうではないと思おうとしていた。自分と相手を、血のつながった他人だと信じようとしてきた。だけれど、どうしようもなく似ていて、疑うまでもなく親子だった。
2人が「心を演じる」ことをやめたとき、本作は構造的にも展開的にも、是枝作品の本流に立ち返る。変わる部分は変わる。変わらない部分は変わらない。急に素直になる必要もない。ただ、愛を偽ることはもうしない。是枝監督はただの“感動”ではなく、ひとさじのエスプリを加えて母娘の雪どけを見つめる。そこに、日本やフランスといった人種や文化の壁はない。是枝監督が描く「家族」は、国境までも「透明化」するのだ。
文: SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライターに。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」「FRIDAYデジタル」「Fan's Voice」「映画.com」等に寄稿。Twitter「syocinema」
『真実』
2019年10月11日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開
原案・監督・脚本・編集:是枝裕和
配給:ギャガ
(c)2019 3B-分福-MI MOVIES-FRANCE 3 CINEMA
photo L. Champoussin (c)3B-分福-Mi Movies-FR3
公式サイト:https://gaga.ne.jp/shinjitsu/
※2019年10月記事掲載時の情報です。