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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

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1216日のオリンピック映画監督



 黒澤の監督辞退を受けても、記録映画委員会は具体的な打開策を打ち出せずにいた。時間だけが過ぎていく中で、業を煮やした業界内からの動きが表面化する。1963年5月、ニュース映画6社(サンケイ映画社、毎日新聞社、中部日本ニュース映画社、朝日テレビニュース社、読売映画社、新理研映画株式会社)から製作協力の申し出がなされた。もっとも、それは表向きの言い回しであり、実際にはニュース映画会社の一社にすぎない日映新社が東宝とオリンピックの記録映画製作を独占受注し、東宝配給で上映することがなし崩し的に既成事実化したことへの業界内からの不満の声でもあった。その上、製作が一向に進展しないとあっては他社から詰問されても無理はない。


 そこで7月16日、ニュース映画6社と日映―東宝、組織委員会の代表が一堂に会した。まず東宝の森副社長が「機材やスタッフの点で東宝―日映新社だけの手には余る。そこで各社の協力を求めるつもりでいたが申し入れるのが遅れた」(『讀賣新聞』63年7月17日)と説明したが、6社側は納得しなかった。さらに与謝野事務総長が「記録映画製作委員会は組織委としては正式に認めたものではなく、東宝へも正式に製作を依頼したわけではない」(『キネマ旬報』63年9月上旬号)と、田畑がこれまでに費やしてきた準備を否定したことから、事態は紛糾することになった。結果として、東宝の製作・配給という計画は全て白紙に戻されることになり、1959年秋からいち早く取り掛かっていたオリンピック東京大会記録映画の準備は全て水泡に帰した。

 

オリンピック記録映画製作を熱心に進めていた東宝の森副社長は、このときの心境を後にこう記している。


「黒沢さんに辞任されてがっかりした私は、相談相手の田畑さんも第一線から引かれてしまうし、方々から東宝独占ということに横槍が入ったりして、いや気がさして遂に製作することを断念してしまった」(『私の藝界遍歴』)


 東宝の辞退によって、前述のニュース映画社6社+日映新社の7社によって新たに記録映画製作のための法人(財団法人東京オリンピック映画協会)を作って共同で製作にあたり、配給は大手5社に委託するという形に落ち着いたのが1963年9月(後に協議の上で配給は東宝へ委託)。東京オリンピックの本番までに1年を切ろうとしていた。


 曲がりなりにも、製作が進むことになったことから、与謝野事務総長は9月13日、再び黒澤に監督を依頼した。今度は東宝を抜きにして黒澤プロダクションの黒澤明個人に対してのオファーである。次回作『赤ひげ』(65)の撮影準備に取り掛かっていた黒澤がこのときどう答えたかは不明だが、この段階では1964年6月に『赤ひげ』は完成する予定になっていた。つまり、映画の完成後、オリンピックに取り掛かることが可能なスケジュールが組まれていたということになる。


 1963年10月、オリンピックのリハーサルともいうべき東京国際スポーツ大会(11〜16日)が開催されたものの、監督不在のままニュース映画各社のキャメラマン120人が撮影にあたった。この記録映像は公開のためではなく、競技がどのように撮影可能か検証するのが目的だったが、散々の結果に終わった。まず室内では光量が足りないために顔も判然としない。室外でもキャメラ位置が確保されておらず、満足に選手を捉えることもできない。つまり、撮影のための便宜が図られていないことから生じる問題が一気に噴出することになった。


 東京オリンピック映画協会の会長を務める読売映画社の田口助太郎は、各社のキャメラマンが撮影してきた映像を黒澤が編集する構想を持っていたが、この大会のテスト撮影を持ってしても、単に撮影した素材を黒澤に渡せば良いものになるわけではないことは容易に察することが出来た。最高の食材を用意しなければ、いくら黒澤が編集を得意とするといえども腕のふるいようがない。選手の顔も競技もロクに映っていないのでは話にならない。


 黒澤がこのときのラッシュを見たかどうかは定かではないが、この大会から半月後となる11月5日、与謝野事務総長は東宝撮影所に黒澤を訪ねた。黒澤はこの日、資料調べが一段落し、一か月後に『赤ひげ』のクランクインを控えた小休止の日にあたっていた。話し合いは20分ほどで済んだが、この席で「記録映画の監督を正式に降りたい」(『朝日新聞』63年11月6日)と黒澤は申し入れ、与謝野も起用を断念すると伝えた。これ以前からも内々には黒澤の意向は確認してあったが、公に再確認するためのセレモニーでもあった。これによって、1960年7月7日に正式発表された黒澤の東京オリンピック記録映画監督としての活動は1216日――3年3か月と29日を持って終わりを迎えた。



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