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黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

(c)Photofest / Getty Images

黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編

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現実の壁、崩壊への序曲



 オリンピック記録映画の準備と並行して、黒澤明は精力的に劇映画の製作を続けていた。ゼネコン汚職を描いた黒澤プロ第1作の『悪い奴ほどよく眠る』の興行が振るわなかったため、次は当たる映画を撮らねばならない。そこで活劇の極みとも言うべき『用心棒』が生まれ、その大ヒットは続編的な『椿三十郎』を派生させ、正月映画として公開された。


 ところで、『用心棒』にはそれまで黒澤に付いていた助手の松江陽一は参加していない。その頃、松江は黒澤と共に撮影を見学したローマ・オリンピックの記録映画『ローマ・オリンピック1960』の日本語版編集に携わっていた。これは、来たるべき黒澤の『東京オリンピック』に向けての予行演習という意味合いもあったのだろう。松江は同作について語った席で、「イタリアでは二年も前からシナリオを準備していたのだから、日本もウカウカしていられない」(『夕刊 讀賣新聞』61年7月8日)と言っているが、『椿三十郎』を作り終えた黒澤が、いよいよオリンピック映画を本格的に始動させようとしたとき、思わぬところからストップがかかった。


 1962年4月21日、『讀賣新聞』は、「どうなる東京五輪映画」と題した記事を黒澤の写真入りで掲載し、トラブルが生じていることを報じた。「資金難で立ち往生/黒沢構想にヒビ/縮小すれば監督辞退か」という太文字が踊る紙面には、オリンピック東京大会組織委員会が製作費として5億円を申請したが、大蔵省からは「五億もかける必要はない。記録映画など十六ミリでいい」と5千万円しか認可されなかったことを伝えている。


 当時、日本映画の製作費は大作の『釈迦』(61)、『太平洋戦争とひめゆり部隊』(62)が公称で5億〜6億とされており、そうした大作と同等の製作費を申請したことになる。もちろん、劇映画と記録映画では単純な比較は出来ないが、黒澤の「ローマ・オリンピック(の記録映画)でも五億はかかっている。自分がつくる以上はローマに負けない、りっぱなものをつくりたい」(『讀賣新聞』62年4月21日)という意地も予算に反映されたのだろう。一方で大蔵省には、ローマ・オリンピックの記録映画は2億5千万円程度で完成しているという情報がもたらされていたことから、態度を硬直させたという見方もあった。さらに大蔵省の一部からは「ニュース映画用に撮影したフィルム、テレビ用の16ミリフィルムをつなぎ合わせても出来るはずだ」(『キネマ旬報』63年10月上旬号)という極言まで飛び出したという。そこで田畑事務総長は次のようなコメントを出して沈静化にあたった。


「黒沢監督は良心的なものを作るつもりから、総経費五億数千万円という予算を出した。これはローマ大会のときでも同額ぐらいはかかったはずなので、当方としてはローマの記録映画の資料をあつめてよく研究することになっている。(略)ベルリンやローマ大会以下のものを作るわけにはいかないので、国でだしてもらう金がたりなかったら、自主財源で補ってでもやらなければならない。黒沢監督をはじめ関係者一同はもうけようと思ってやっているものは一人もいないし、五億数千万円つかっても、それは全部が奉仕したうえのことだ」(『讀賣新聞』前掲)


 その後、『ローマ・オリンピック1960』の資料が取り寄せられ、製作費は約3億円であることが判明した。組織委員会では大蔵省からの5千万円に上乗せする形で銀行から2億円の融資を受け、2億5千万円の予算で製作できないかを黒澤に打診した。これは公開後の配給収入の予想額を見越しての数字でもあった。黒澤は再度、予算を練り直したが、その結果は前回提出された5億2千万円を上回る5億9千万円に達していた。それ以外にも黒澤プロの年間収益1億5千万円を補填して増額した7億円を超える額を申請したという説もある。


 予算と共に大きな問題となったのが、当初から黒澤が懸念していたキャメラの台数である。それがいよいよ現実の問題として立ち塞がった。黒澤は使用キャメラを70台と見積もったが、劇映画を製作する大手映画会社が所有するミッチェルキャメラは全部合わせても約50台しかなく、黒澤が監督就任直後に「日本の全映画人の協力をお願いしたい」と言ったのは、こうした理由があったからでもあった。しかし、これはオリンピック開催期間中、全映画会社は撮影をストップすることが前提になる。別の言い方をすれば黒澤映画のために他の映画人たちの犠牲を求めているのだ。


 この頃から既に〈黒澤天皇〉の異名を持つほど神格化された存在でもあったが、同時に反発する声も少なからず存在した。それは黒澤の膝下である東宝ですらそうだった。「黒澤には自由にさせて、オレたちには決まった日数と金しかくれないのかという空気が強かった。尊敬はしていても、どんなことをやられてもいいという雰囲気ではなかった」(『黒澤明ドキュメント』キネマ旬報社)という東宝の森副社長の発言は、当時の映画人たちの気分をよく伝えている。


 映画会社からキャメラを調達することは現実的ではないことが判明し、海外からレンタルすることも検討されたが、機材は揃っても優秀なキャメラマンを揃えることが出来るかどうかという問題も残されていた。劇映画の優秀なキャメラマンばかりを揃えても、競技撮影で同様に能力を発揮できるとは限らない。そこで様々な条件での撮影に慣れた報道キャメラマンを、ニュース映画製作会社から借りてくれば問題はクリアできるのではないかと打診したこともあったが、「テレビや一般ニュース製作にさしつかえる」と全く相手にされなかったという。こうした諸問題の山積から、黒澤が降板するのではないかという憶測が流れ始めた。



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