「親愛なる隣人」と市民との繋がりが描かれている
しかし、ライミ版で一番重要なのはやはりピーター・パーカーの私生活だと思う。スパイダーマンである以前に、ひとりの多感な青年であるということが余すことなく描かれるからこそ、彼がスパイダーマンであることの重みが強く感じられる。二重生活に苦悩するピーターは、前作でベン伯父さんから教えられた「大いなる責任」と「大いなる力」との間で激しく葛藤することになる。
ピーターはスパイダーマンとしての日々に忙殺されて大学の単位は取れず、ピザ屋のバイトはクビに、想いを寄せるMJはジェイムソン編集長の息子と婚約する始末(始末って)。女優としての道を歩み出したMJの顔が使われた香水の広告が、街の至るところからピーターを見ているが、それだけ彼女が遠い存在になっているように感じる。やがてはそのストレスから超人的能力も衰えだし、ピーターはついにスパイダーマンから解放されることを決意し、スーツを捨て去ってしまう。
一方でスパイダーマンの多忙さからは、その存在がそれだけ街に浸透していることも窺え、ライミ版で顕著なのはまさにそんな「親愛なる隣人」としてのスパイダーマン像でもある。スパイダーセンス(第6感)が危険を察知すれば、たとえピザの配達中や大好きなMJが出演する舞台に向かう途中であっても、着替えて現場に急行し、彼が蜘蛛の糸でビルの間をスイングしているのを見れば、人々は声援を送る。一作目でのグリーン・ゴブリンとの対決では、ニューヨーク市民たちがゴブリンに物を投げてスパイダーマンを応援さえした。
本作ではドクター・オクトパスとの戦いで傷つき、素顔を晒しながらも暴走列車を食い止めたスパイダーマンを、乗客たちが介抱し、素顔を見なかったことにすると約束する。その後もとどめを刺しにやってきたオクトパスに対して乗客たちが立ち塞がるなど、市民と親愛なるスパイディとの絆が描かれるシーンが熱い。
MCUシリーズも確かにおもしろく大好きではあるが、こうした人々との関係があまり描かれないのが物足りないところでもある(描こうとしているものが違うのはわかるが)。宿敵との戦いと市民との絆を両立して描いているところが、ライミ版スパイダーマンの醍醐味のひとつだろう。クロスオーバーは確かに世界観を広げ、映画同士の隔たりをなくしさえしたが、同時に物語が茫漠と広がり、伸びきってしまったようなところもあり、それに対してひとつの作品の中で完結した物語(当たり前だが)は引き締まり、どこかほっとするものがある。
『ノー・ウェイ・ホーム』に登場するドクター・オクトパスが、ライミ版のそれと繋がりを持つのかどうかはまだわからないが(まさか『ワンダヴィジョン』におけるクイックシルバーの件を忘れたわけではあるまい。詳しくは同作を参照)、いずれにせよ『スパイダーマン2』とそこで描かれたキャラクターやストーリーは、これからもスパイダーマン映画のスタンダードとして色褪せることはないだろう。
イラスト・文:川原瑞丸
1991年生まれ。イラストレーター。雑誌や書籍の装画・挿絵のほかに映画や本のイラストコラムなど。