キャラクターを決して断罪しないこと
Q:本作では、サンドラと彼女の旧友でいまは妻帯者のクレマン(メルヴィル・プポー)が再会し恋が生まれる一方で、クレマンの妻や子供は登場しません。それはあなたのドラマツルギーにおける意図でしたか。あるいはふたりの女性を対決させたくないという配慮に拠るものでしょうか。
ミア:そういう配慮もあったと思います。でも同時に、映画がつねにサンドラとともにあるための選択でもありました。わたしにとって、カメラがサンドラを離れて、クレマンとその妻の物語を描くということは、この映画の意図にそぐわないと感じられたのです。さらに、もしクレマンの妻を登場させたなら、観客は否応なく彼女とサンドラを比較することになるでしょう。ふたりを比べて、果たしてサンドラはクレマンが妻子を捨ててまで一緒になりたいと思うに価する女性なのかと、判断しようとするはずです。クレマンと妻の関係について、観客を判断させる立場に置きたくはなかった。そうではなく、サンドラとの愛に集中させたかったのです。それにわたしの映画では、すべてを見せるということはせず、つねに曖昧な部分を残しています。思うに最近の映画は、すべてを説明しすぎるものが多い。すべてを知りたくないと思ったり、あるいは知りたくないことを無視するというのは、人生においてよくあることだと思うのです。だから映画でも同様のことに、わたしは惹かれるのです。
『それでも私は生きていく』
Q:サンドラとクレマンの関係で印象的なのは、ふたりともいたって真剣で誠実であり、恋愛遊戯のような部分がないことです。
ミア:たしかに彼らの関係には誘惑の遊戯のようなものはありません。とても誠実で純粋だと思います。そのように受けとってもらえて嬉しいです。というのも脚本を書いているときに周囲からは、今日、こういうふたりの関係は観客にあまりいい印象を与えないのではないかと指摘されたからです。でもわたしは映画監督としてキャラクターを断罪するようなことはしません。クレマンを優柔不断だという人もいますが、わたしにとって彼の迷いは、一種誠実さの表れです。もしもサンドラと出会ってすぐに、彼が妻と息子を置いて家を出て、サンドラと一緒になったとしたら、それは露骨すぎる。彼の行動のプロセスはゆっくりとして、苦しいものであるべきだと思いました。