なぜ“表現者”だったのか
Q:洋子、昌平、さとくん、陽子と、出てくる4人が、物書きや絵描きなど何かしらの表現者であるというところもが興味深いです。どういった意図があったのでしょうか。
石井:大きく二つあって、一つは表現者は危ういものだということ。「自分がやりたいことはこれだ!」と究極的に突き進んでいく人間なので、それ以外のものに対して徹底的に冷たくなる。それって排除に似ていると思ったんです。さとくんがやったことや彼の考え方にかなり近い。
もう一つは、僕たちがやっていること(映画作り)は生産性が無いということ。コロナ禍で映画は不要不急のものだと断定され、映画館にも休業要請が出ました。確かに僕たちはエッセンシャルワーカーではないですし、映画は人の生命に直接関わらない。でも、表現は人間にとってすこぶる重要なものだと思うんです。ただし、生産性だけを見られるならば、排除の対象になり得ます。「あなたの作るものに価値はありません。あなたは社会にとって不必要な人間です」と言われればそれまでです。僕の周りには全然お金は稼げないけど、「どうしてもこれがやりたいんだ」と真摯に表現を続けている人たちはたくさんいるし、自分だってそう。だったらそういう人間は生産性が無いから生きる価値がないのかと。これは全く拡大解釈ではないと思いますね。
『月』(C)2023『月』製作委員会
オダギリ:今の監督の話を聞いていると、改めて表現とは何かを考えちゃいますよね。ただ自分は、やっぱり表現が不要不急なものとされたり、生産性がないとされることには抗いたいですけどね。だからこそ、さとくんの考え方に納得できる部分もあれば、完全に抵抗を感じるんでしょうね。
Q:洋子とさとくんが対峙するシーンで、さとくんの意見に対して洋子は激昂して言い返すしかなく、理屈で返せない状況になっています。それはつまり、この世界はさとくんが言っている通りの場所であって、否定できないという恐ろしさを感じました。
石井:そうですね。さとくんとしては、今の世の中の普通の原則を請け負った上で、普通のことを普通にやろうとしている。そういう人が現れたときに、「(殺すことは)命は平等なので、やめてください」という言い方しか出来ない社会になっていることは、もう事実なんだと思います。強力な反論ができない。