業界の当事者に届けるために
Q:『恋愛裁判』も、どうしても「日本のアイドル文化っておかしいよ」という視点を期待されてしまうってことですか?
深田:はい。数年前にすごく印象に残ったことがあって、『パピチャ 未来へのランウェイ』(19)というアルジェリアの映画があるんです。アルジェリアのイスラム社会と内戦が背景にあって、1990年代に特に女性への規制がすごく厳しく、派手なファッションをしていたら街で暴力に遭うようなことが実際にあった時代に、大学でファッションを学んでファッションショーを開こうとする主人公を描いている。最後はかなりセンセーショナルな終わり方をするんです。
自分が初めて観たのはアフリカのチュニジアの映画祭で、たまたま審査員で呼ばれていたんです。アジアからの審査員は自分だけで、あとはアラブ世界の映画監督であったり脚本家だったり、小説家の人たちでした。その映画祭のコンペティションの一本にその映画も選ばれていて、すでにヨーロッパでは高く評価されていたんです。
自分も初めて観て、そんなことがアルジェリアであったことも知らなかったのですごく勉強にもなると思ったし、映画としても面白く観たんです。でもその後の審査の席では、アラブ圏の人たちの反応がかなり厳しくて。まず、「もうさんざんやり尽くされた古い題材である」とか「単純化しすぎてる」とか。それをなぜ今やるのかという視点が見えないという意見でした。あと、確かにすごく単純化をしているんです。主人公に対して暴力を振るう過激派の人たちを分かりやすく記号的な悪として描いていて、善悪の構造がはっきりしている。どう見ても主人公たちに同情するような作りになってるんです。
でも当然ですがアラブ社会、イスラム社会にだっていろんなレイヤーがある。ただ映画の中ではより分かりやすい「泣ける悲劇」として描かれていて、フランスとの合作でもあるんですけど、やはりヨーロッパ社会に受けやすい内容になっている。良い映画ではあると思うんですが、自分にはどこか、ヨーロッパに自国の「社会悪」を生贄として差し出しているような居心地の悪さも感じてしまいました。
自分は、社会には複雑なレイヤーがあり、それを複雑なまま描くことが、当時者の、そこに住んでる人間にしかできない特権だと思っています。逆に言うと、現地の空気を読まずにバッサリと単純化して斬るっていうのも、外国の視点だからできる特権でもあると思うんですけど。

『恋愛裁判』©2025「恋愛裁判」製作委員会
ただ、アイドル文化圏である日本に生きてきた自分がアイドル業界を描くときには、その複雑なレイヤーはきちんと残して、社会悪みたいな要素を単純化して、そもそもアイドル業界に興味がなかったり、反感のある方々の溜飲を下げるための作品にはしたくない。東アジアを中心にしたアイドル文化圏のファンであったりとか、業界の当事者たちに他人事ではなく自分事の映画としてきちんと届く誠実さを持ったものにしなければ本当に意味がないという思いはありました。
Q:物語としては、ひとりの女性が今まであまり考えていなかった人権や精神的な自由について目覚めていくという流れは骨子としてありますよね?
深田:それはあります。古典的すぎるかもしれないけど、何かに気がついてしまう女性という構図は脚本段階だともっと具体的に言及していて、実はイプセンの「人形の家」のイメージがありました。自分は演劇では観たことがなくて、戯曲で読んだだけなんですけどすごく好きな作品なんです。
あれって主人公のノラが、ずっと家庭の主婦としてほわほわっと生きている天然な感じの子なんですけど、いきなり最後に目覚めるんですよね。突然「私は結局人形でしかなかった」って言って、夫どころか子供さえ置いて家を出ていってしまう。結構衝撃的な話なんですけど、やっぱりそういった「何かに気がついてしまう瞬間」を描きたい欲はずっとあります。今回も真衣が「人形の家」を見て心を動かす、というシーンがあったんですけど、反対が多く断念しました。