映画を牽引した、原作の持つ“力”
Q:企画・脚本の段階で、原作者の磯野真穂さんと実際にお会いして話されたそうですが、磯野さんとの会話からは何がもたらされましたか。
濱口:本当に沢山ありますが、まず当たり前のこととして「手紙だけが全てではない」ということです。本には書かれていない膨大な量のLINEのやり取りがあったことや、宮野さんが亡くなられた後の磯野さんの感情なども伺いました。
一番受け取ったのは、この本は磯野さんにとって「自分の人生を決定的に変えた」もの、つまりはものすごく大事な本だという実感です。磯野さんが残された唯一の著者ではあるものの、この本は自分一人だけのものではなく、単純に自由にできるものではない。そう感じてらっしゃることがよく分かりました。
だからこそ、松田プロデューサーとも「“どうしたらいいか分からない”と伝えることが、おそらく正しいに違いない」と共有しました。簡単に「こう映像化します」とインスタントな企画を見せても信頼を得ることはできない。「分かるまで時間をかけてもよいのではないか。そうしないとどうしようもない」ということを話し合って、受け容れていただきました。
Q:松田プロデューサーの中では「こうしたい」というものはあったのでしょうか。
濱口:松田さん自身がこの本にすごく心を動かされ、当時がんを患っていたご友人がいたことなどもあり、非常に深く作品に入り込んでいました。「この本で何かをしたい」という強い思いがあったため、松田さん自身は「私は映画のプロデューサーだけれども、映画でなくてもいいのかもしれない」とも言われていました。この本のテキストをちゃんと活かすのであれば、例えば朗読劇にして、その演出を私(濱口)にしてもらう形でもいいぐらいに思っていると。
その考えは大いに分かりましたし、テキストをそのまま映画に置き換えることが非常に難しいことも理解しつつ、ただ、私自身の能力が朗読劇を演出するといったところにはないので、「映画になるまで待っていただいていいですか」とお伝えしました。そこからすごく忍耐強く付き合っていただいたと思います。

『急に具合が悪くなる』© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula - Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
Q:磯野さんも実際にカンヌに行かれて、そのことをご自身のブログで書かれており、「宮野さんが何度も語った”その先”の姿を、ぜひ一緒に見てください。」という一文を拝見しました。映画の完成後、磯野さんと会話はされましたか。
濱口:完成後も何度かお会いしましたし、対談もしました。基本的には公に仰っているのと同じです。「原作の魂を引き継いでくれた」という趣旨の言葉をいただきました。
映画は形としては、原作から非常に離れたところに着地していますが、原作をフランスのプロダクションに翻訳してもらって、マリー=ルー役のヴィルジニーさんやメインスタッフにも読んでもらっています。ヴィルジニーさんたちが揃って言ってくれたのは、「原作とは脚本は全然違うが、確実にこの原作がこの脚本になっている」ということでした。誰にとっても相当に大変な準備が必要な仕事でしたけど、根本に「この原作を映画化する」という価値のある試みがあったからこそ、皆献身的に付き合ってくれたような気がしています。自分や松田さんが5年、6年と根気よく仕事ができたモチベーション自体も、すべて原作が持っている価値そのものが与えてくれたからだと強く感じています。
原作の持っている価値をちゃんと映画に置き換えることが出来れば、自分が読んだ後に感じたような体全体が震えるような思いを、きっと観客にまで受け渡せるのではないかと思っていました。本当に、原作の力でここまで連れてきてもらったと感じています。この映画を通じて原作を知ってくれる人も増えていくことを心から、願っています。