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『ゾンビランド』終末世界で「楽しく生きる」発想の妙――愛すべき“照れ屋”な爽快作

『ゾンビランド』終末世界で「楽しく生きる」発想の妙――愛すべき“照れ屋”な爽快作

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ドラマティックに見せすぎない「照れ屋」な演出



 「明るく楽しい」「前向き」「キャストが生き生きしている」「映画ネタが満載」「ルールなど、設定が面白い」など『ゾンビランド』が愛される理由は多々あるが、個人的にはそこにプラスして「押しつけがましくないドラマ性」を挙げたい。


 ただ製作陣が楽しくやっている“パリピ映画”は、オープンなようでいて観る者を選びもする。そもそもの感情の“温度”が高すぎて、波長が合いにくいからだ。いかに作り手に共感できるかが気に入る/気に入らないを左右することとなるが、『ゾンビランド』はそうではない。一見ゴリッゴリのジャンル映画に感じられるが、それでは世界興収1億ドルには到達できない。そこには必ず、世界中の人々を動かす、普遍的な共感ポイントが隠れている。


 誰が観てもわかる、気持ちの拠りどころ。それは、キャラクターと心のギャップ、そしてそれをシリアスに見せない「照れ屋」な演出だ。




 コロンバス、タラハシー、ウィチタ、リトルロックは、全員が「被害者」だ。青春を謳歌する間もなく、愛する者との日々を奪われ、気を抜けば「自分だけがなぜ生きるのか?」と深みにはまり込んでしまいそうな世界。本作ではゾンビ映画にある「命が消えていく哀しみ」を現在進行形で提示せず、それぞれの心の内にしまい込んだ「過去」として見せていく。その奥ゆかしさが、キャラ立ちの強いタラハシーであっても人間味を常に感じさせ、観客との溝を作らない。この世界を生き抜くうえでこういう「建前」を演じているのだ、ということをスムーズに理解できるからだ。


 生きてゆくと決めたなら、悲観していてはつまらない。先ほども軽く触れた「前向きさ」には、逆説的に「絶望」がある。この4人の心理には、まず人間らしい悲しみや苦悩があり、それらに支配されないために明るく振舞うのだ、というロジックが丁寧に示されるため、先に挙げた「客を選ぶ」構造にならない。


 キャラクターたちが皆、素直であるという点も大きい。ウィチタとリトルロックの姉妹は生きるために「裏切り」を是とするタイプの人間だが、コロンバスやタラハシーは非難こそすれ、心の底から憎むことはない。根本的に「性善説」によってキャラクター造形がなされており、この世紀末の世界でそれでも手を取り合って生きてゆこうとする人々の姿が肯定的に描かれている。




 『ゾンビランド』の世界には、悪い人間がいないのだ。だからこそ、観る側も気持ちがささくれることなく、目の前の物語を楽しめるのではないだろうか。


 ゾンビ映画であるため多少の残酷さ(といってもまるで怖さや気持ち悪さはない)はあるものの、フライシャー監督は、温かな目線で登場人物を見つめ、彼らの悲劇性を過剰に劇的に見せることはない。過去に何があったにせよ、「楽しく過ごす」ことを大切にする人々を描いているからだ。ぱっと見「人を食った」ようなオフビートな演出は、観る者に門戸を開き、共感をもたらす礎にもなっているのだ。



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