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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』確かに、あのとき、生きていた――「怒り」を排した、鎮魂の日常劇

(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』確かに、あのとき、生きていた――「怒り」を排した、鎮魂の日常劇

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観客の肌感覚を操作する「時間」の演出



 ここまでは『この世界の片隅に』、ひいては『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の内面の魅力を語ってきたが、最後に演出面での特異性について触れたい。


 この作品は、新規カットが追加されたにせよ、1つひとつのエピソードが異常に短い。全体のテンポは緩やかに「見える」ように設計されているのだが、作品全体が、数分単位の出来事の集合体として出来上がっているのだ。そして、エピソードとエピソードの間には空白がある。私たちが見ているのはあくまで、すずの人生のダイジェストなのだ。


 この辺りは、実写ドラマ『この世界の片隅に』(18)と大きく違うところだ。物語の大筋は共通するのだが、こちらは連続性をもって描かれている。


 しかし、不思議なことに大筋に加えて独立したエピソードが点在しているアニメ版は、観進めていくにつれて星座のように独自の形を結び始める。この点は、先に述べた「人を描く」部分が大きい。物語を基準に考えていくなら、短いエピソードの集合体はかえってノイジーなのだが、人を描いていく目的であれば、間を端折る演出は効果的だ。また、この点在するエピソードはすずの感情の流れとしては見事につながっており、連続した1時間よりもはるかに濃密な人物描写が行える。


 そして、この時間の使い方は、トリッキーな装置としての役割を果たしているようにも思える。うがった見方であることは承知の上で記すと、「タイムサスペンス」の枷を外す演出だ。


 我々は、昭和20年に広島に何が起きるかということを知識として知っている。物語は現実に準拠していて、十数分に1回「○年○月」というテロップが表示され、いずれ起こる大事件を観客は予感しながら観ていくことだろう。そのプロセスが連続した時間帯で描かれていくと、キャラクターの体感時間が観客の実時間とニアイコールになっていくため準備がしやすいのだが、『この世界の片隅に』はそれを許さない。



『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会


 新規カットが追加された『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』はよりその印象が顕著で、テンポが一定のようでいて「じっくり描く部分」「飛ばす部分」「サクサク描く部分」がどこになるのか観客は判断しようがないため、いつ何が起こるかというのが「予想」しづらい。


 そのため、カットが変わると身内が亡くなっていたり、いきなり心をえぐられる展開が待ち受けている。やがて原爆投下や終戦が描かれることは知っていても、大体何分後に起こるのか分からない。その結果、観客は登場人物と限りなく近い感覚にまで寄っていく。突然の訃報にショックを受けるのは、登場人物も観客も同じ。


 これが連続した時間の中で展開する出来事であれば「死亡フラグ」のようなものを描くこともできるのだが、そこを敢えて「抜いている」ため、いきなり結果だけを知らされる。エグすぎる絶望。だがそれこそが、当時の「普通」だったのだ。


 そしてまた、身内の死や罹災などの事件に直面した登場人物たちの「泣きながらも受け入れる」従順な反応に、観客は二重に驚かされるのではないか。この映画では「愛」はじっくりと描かれるが、「哀」はすぐに流れてしまう。現実感のないまま、人命が毎日のように消えていく、その繰り返し。「悲しみに慣れる」という表現が適切かは分からないが、何か大きなものに対する諦念に似た感情が、本作には影としてべっとり後をついて回る。先に述べた部分と共通するが、「戦中に生きる」リアルとはどういうことなのかを、心に、身体に刻み付けられることだろう。


 『この世界の片隅に』の中には、彼女たちの毎日には、命を悼む暇がない。人物を息づかいに至るまでじっくりと描いているが、想いの部分で現代の我々とは隔絶した感覚を抱かせる。身を引き裂かれるような苦しみを乗り越えて前へと進もうとする温かな雰囲気が、余計に切なさや絶望感を強めもする。



『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会


 なぜ、そう生きるしかなかったのか、受け入れるしかなかったのか、どうしてここまで踏みにじられてもなお、笑顔でいられるのか? 彼らに畏敬と憐憫を抱く一方で、心根からして今の感覚とは全く違うのだと思い知らされる。その断絶を生じさせた“犯人”は、紛れもなく戦争だ。


 本作を観終えた後、どうやっても拭い去れないやりきれなさと行き場のないいたたまれなさ。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では、新規カットが追加されたにもかかわらず「怒り」は描かれない。その感情の表出と伝播を託されたのは、他ならぬ私たち観客だ。


 この世界の片隅で生きた人たちの命を風化させず、語り継いでいく。二度と繰り返さぬように、この先も哀悼をやめない。小さな善意を集めて生まれた2作に宿る「声」は、きっと時代を超えて生き続けるだろう。


 薫陶を受けた人々の今が、永遠の平和への礎となることを、願ってやまない。



文: SYO

1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」「FRIDAYデジタル」「Fan's Voice」「映画.com」「シネマカフェ」「BRUTUS」「DVD&動画配信でーた」等に寄稿。Twitter「syocinema



作品情報を見る



『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

2019年12月20日テアトル新宿・ユーロスペース他全国公開

(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

公式サイト:ikutsumono-katasumini.jp

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