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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』確かに、あのとき、生きていた――「怒り」を排した、鎮魂の日常劇

(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』確かに、あのとき、生きていた――「怒り」を排した、鎮魂の日常劇

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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』あらすじ

ここではひとりぼっち、と思ってた。広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。昭和19(1944)年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりを感じてしまう。昭和20(1945)年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。そして昭和20年の夏がやってくる――。


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「戦争映画」のイメージを刷新する「日常のドラマ」



 世界がどんな色をしていても、人はそこで生まれ、育ち、学び、生きる。

 恋に落ちて、愛を分け合って、命をつないでいく。普遍で不変の真理。


 『この世界の片隅に』(16)は、実に不思議な映画だ。死のにおいがすぐそばにあるのに、温もりに満ちている。戦争という悲劇に容赦なく進む構成ながらも、スクリーンに広がるのはのんびり屋さんな女性の優しい日常。きっと誰も知ることのない、世界の片隅で起こっていた小市民の生活の記録だ。


 誤解を恐れずに言えば、どこにでもあるちっぽけな話。それなのに、市井の人々の感情の機微、ささやかな喜びや淡々とした哀しみに、どうしようもなく心を動かされてしまう。それは、彼らが時代の暗がりとして感じていたであろう悲劇的な「未来」=結末を、我々が既に知ってしまっているから。ただ、この映画は現代のフィルターで過去を脚色しない。


 『この世界の片隅に』を観ていると、当たり前の感情――戦時下の彼らは死に向かって生きていたのではなく、目の前の生を謳歌していたのだ――ということに気づかされる。


『この世界の片隅に』予告


 彼女たちが悲劇の時代に生まれ落ちてしまったと見る現代の「目」と、兵役も食糧配給も周囲のすべてを“普通”のものとして生きている登場人物の「心」の、ギャップ。『この世界の片隅に』が示したそのズレに我々は驚かされ、当時の人々の生命力に胸を打たれた。本作は、知らず知らずのうちに日本人の中で凝り固まっていた「戦争映画」のイメージをさらりと覆した、エポックメイキングな映画だったといえるだろう。


 その『この世界の片隅に』が、新たなシーンを追加した「完全版」として帰ってくる。今回紹介する『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、前作(現行版)に約250の新規カットを追加した、優しくも哀しい、残酷で穏やかな大河だ。


 舞台は、昭和19年。広島・呉の一家に嫁いだ女性・すずは、慣れない新生活や戦時下の困窮した状況に直面しつつも、持ち前のおおらかさで周囲を笑顔にしていく。先ほども述べたとおり、(今の時代の我々から観ると)ハッピーな物語ではないのだが、それでも粛々と日々を慈しみ、小さな幸せを手折っていくすずの姿は、慈愛と救済の心に満ちている。あの時代の片隅で、笑顔を絶やさずに生き続けた人たちがいたということ。本作ではすずや、遊郭で働く友人リンの心情描写が大幅に加筆されており、味わいと哀愁が一層増している。


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』予告


 監督・脚本を務めた片渕須直は、マスコミに向けた資料内で「本作は現行版に比して深刻さのレベルが変わる」と語っており、名実ともに、本作をもって『この世界の片隅に』は「完成」したのかもしれない。



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