1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. この世界の(さらにいくつもの)片隅に
  4. 『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』感情移入がもたらす映画の力とは
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』感情移入がもたらす映画の力とは

(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』感情移入がもたらす映画の力とは

PAGES


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』あらすじ

ここではひとりぼっち、と思ってた。広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。昭和19(1944)年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりを感じてしまう。昭和20(1945)年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。そして昭和20年の夏がやってくる――。


Index


日常に感情移入させる難しさ



 映画を面白く感じる理由の一つに「感情移入」というものがある。普段の生活とはかけ離れている世界が舞台の、SF映画やアクション映画でも、感情移入してしまうことはよくある。極端な例でいうと、ブルース・リーの映画を観て映画館を出てくると、何故かみんな顔がブルース・リーになってしまっているというそれであろうか。どうやら、それぞれの映画が持つ世界観に圧倒され呑み込まれてしまうと、たとえそれが非日常の世界だったとしても、自分も登場人物の置かれた状況に没入し、感情移入しやすいのかもしれない。


 一方で、日常が舞台の映画はどうだろうか?自分の置かれている状況と近い分だけ、非日常が舞台のSFやアクション映画よりも感情移入できそうではある。しかし日常が舞台となると、非日常のそれよりも自然と見方がシビアになってくるのではないだろうか。SFなどの非日常の世界は、頭の中ではこれは「フィクション」だと割り切っている部分が少なからずある。


 だが日常が舞台の場合は、自分が意図しなくても、映画の世界と自分の世界との相違点に気づいてしまい、「こんなことは現実にはない」と自然と頭に浮かんできてしまうこともある。そういう意味では日常を描くことの方が、感情移入させるには多少ハードルが高いのかもしれない。


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(c)2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会


 さて前置きが長くなってしまったが『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』である。元となった『この世界の片隅に』が、日本映画史における類稀なる傑作であることは十分に知られているが、その理由の一つにこの映画にグッと感情移入させられてしまったという声は多い。かく言う筆者もその一人なのだが、この映画のすごいところは感情移入にとどまらない。多くの人々にとって非日常と感じるはずの戦時中の生活を、強く感情移入させることにより、まるで日常の延長線上にあるように感じさせてしまったことにもあると思う。


 いや、感じさせてしまったのではなく、結果それが日常だったのだと気づかせたことに、この映画の本当のすごさがあるのかもしれない。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
counter
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. この世界の(さらにいくつもの)片隅に
  4. 『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』感情移入がもたらす映画の力とは