16ミリフィルムの映像がもたらす、画面の“触感”
このように紆余曲折を経て日の目を見た『ロマンスドール』だが、作品の中身もまた、時間をかけた甲斐のある奥深い内容と相成った。「夫婦」という普遍的なテーマの王道(すれ違いと衝突、相互理解)はしっかりと押さえつつ、ラブドールが象徴する「セックス」というテーマを愛の行為としてだけではなく、寂寥感たっぷりに描いている。
画面に充満する、震えるような「寂しさ」はタナダ監督ならではの特色であり、室内のカットが多いことも相まって、空気が溜まっているような閉塞感を抱くだろう。しかしこれは非常に重要なポイントであって、すれ違う哲雄と園子の「言えなかった」「伝えたかった」想いが降り積もり、澱のようにかさを増していくさまが、イメージとして脳内に刷り込まれていく。
ここで機能を果たしているのが、タナダ監督がこだわったという全編16ミリフィルムでの撮影だ。独特のざらつきや温もりを閉じ込めたような質感が画面に宿り、どこか古ぼけたノスタルジックな印象を常に与える。また、この画面の“触感”は「本物の女性のような完璧な肌ざわり」を追求する哲雄のパーソナリティともリンクしていく。つまり、画面自体が哲雄という人間自体を表現しているのだ。
『ロマンスドール』(c)2019「ロマンスドール」製作委員会 配給:KADOKAWA
園子の息づかいは、水中から水面に向かう気泡のように、頼りなく揺らいでいる。水と空気。一緒にいるようでいて、別のもの。序盤は園子が恣意的に幽かな“異物”として画面に映し出されており、消え入りそうに儚げな彼女の存在感は、「嘘をついて家から消えた」という突然の事件によって完全に途絶えてしまう。本作は机が頻繁に描かれる作品だが、その机の映し方も暗く沈んだものとなり、画面の色調が体感的に落ちて見えていく。異物でもあり画面の“あしらい”でもあった園子が出ていくことで、世界は単色に染まってしまうのだ。
その後、数日ぶりに戻ってきた園子が胸に秘めていた想いを明かすとき、そして哲雄が自分の生き方を見つめなおすとき、2人のバランスは大きく変化する。痛みを分かち合い、弱みをさらけ出した哲雄と園子は、同じ光を浴びるようになっていくのだ。あるときは日光、あるときは室内照明。同じ明かりの中に入り、同じ色に染まるとき、哲雄と園子は初めて夫婦として歩き始める。
『ロマンスドール』(c)2019「ロマンスドール」製作委員会 配給:KADOKAWA
映像の色調や光彩、トーンで夫婦の関係の変遷を表現した「映像言語力」も見事だが、「弁当」というアイテムが実に効いている。新婚時代は毎日のように愛妻弁当が登場するが、園子との関係が悪化、或いは断絶するとコンビニやスーパーの弁当に変わる。その際は家でも職場でも、哲雄の食事シーンは暗く、重い。そうなると不思議なもので、弁当自体が冷たく、味気ないものに見えてくる。タナダ監督はこうしたセリフ以外の部分で、サブテクスト的に心情を演出する。
決して情報量が多かったり、映像や小道具の主張が強いわけではない。役者陣の演技も、プライベートフィルムと見まがうほどに淡々とリアルだ。しかし、いやだからこそ、『ロマンスドール』には共感を超えた「共鳴」、同調の先を往く「同化」があるように思えてならない。
時々、物語の主流とは違う「些細な日常の一コマ」が挿入されるのも出色。哲雄の苦悩や、園子の痛みが「わかる」のではなく「わかってしまう」切なさは、『リリイ・シュシュのすべて』(01)以来に共演した高橋と蒼井の表現力が筆舌しつくしがたいほどに素晴らしいことも勿論だが、タナダ監督の観察眼の鋭さによるところも大きい。
本作は、映像も演技もセリフも、全てが日常の延長で構成されているのだ。それゆえに、これから語る「セックス」の意味合いが、他の作品とは全く違っている。