2020.06.10
“言葉の向こう側”へジャンプすること
『ハーフ・オブ・イット』には、様々な映画や小説、偉人たちの言葉の引用に満ちている。そしてエリーはその言葉を信じ、人生の指針としていた。「地獄とは他人である」というサルトルの言葉通り友人付き合いはいっさいしないし、「自分を欺いて始まり、他人を欺いて終わる。それが恋愛だ」というオスカー・ワイルドの言葉が恋愛の教義だと考えている。
だが、かつて自分が「地獄」だと思っていたはずの他者…ポールやアスターとの邂逅によって、固く閉ざされていた扉がゆっくりと開き始める。彼女は自分自身の言葉を紡ぎ始める。「愛は寛容。愛は親切。人をねたまない。自慢せず、謙虚である」と愛をカソリック的に定義するクラスメートのトリッグに対して、エリーは「愛は厄介。おぞましくて利己的。それに大胆」と異論を唱える。しかも教会の場で。
この“恋のようなもの”は、カズオ・イシグロによる文学作品「日の名残り」をきっかけに始まるが、この小説自体が決して愛を口にすることのない執事の物語。だがエリーは想いを秘匿したままにはできず、自分のなかのボキャブラリーを総動員して、愛について語る。
だがこの映画がすごいのは、さらに“言葉の向こう側”へジャンプしようとすることだろう。私たちが感じている“何か”を言葉に当てはめた瞬間に、その“何か”は具体的な意味を帯びて、本質から遠ざかってしまう。するっとその手から逃げてしまう。恋愛とか、友情とか、この映画で描かれる大文字としてのLOVE=愛は、もっと抽象的で、観念的で、不明瞭で、おぼろげなものだ。
エリーがアスターに感じている愛は、恋愛のようでいて同志的な絆のようでもあり、ポールがエリーに感じている愛は、友情のようでいて恋愛に近いもののようでもある。愛とはひとつの言葉に押し込めることができない、多義的なもの。アリス・ウーは、自らこう記している。
「映画が完成した今、以前よりよく見えるようになったことがいくつかある。ひとつは、私が以前は唯一絶対の愛の形があると考えていたこと。「A+B-C=愛」といったぐあいに。年を重ね、今なら見える。かつて想像できなかったほどたくさんの愛の形が」(監督のことばより抜粋)
考えてみれば、エリーはメールでしか愛の言葉を伝えることができず、ポールは自分の言葉で愛を伝えることができない。エリーの父親に至っては、そもそも英語が話すことができない、ときている。だが彼らは、言葉を超えてお互いを知り、愛し、慈しむのだ。
エリーの父親は、ポールには理解できない中国語で本心を打ち明ける(まるで『カサブランカ』の最後のセリフのごとく、この二人には“美しい友情が始まる”ことだろう)。ポールはエリーに何を打ち明けるでもなく、列車に向かって走るというベタな行動に打って出る。
『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』は、抽象的で観念的な“愛”をめぐる冒険の記録である。筆者はこの映画に拮抗するだけの言葉を持ち合わせてはいないが、これだけは確実に言える。サイコーの映画であると。
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
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