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『真夏の夜のジャズ』気鋭のフォトグラファーが撮りきった、伝説のジャズフェス。

(c)1960-2019 The Bert Stern Trust All Rights Reserved.

『真夏の夜のジャズ』気鋭のフォトグラファーが撮りきった、伝説のジャズフェス。

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ファッション写真家、バート・スターンの斬新な試み



 映画の監督を担当しているのは、50年代から60年代にかけて気鋭のフォトグラファーとして「ヴォーグ」誌などで活躍していたバート・スターン(1929~2013)だった。


 ニューポート・ジャズフェスティバルはジャズ・クラブの経営者で、レコード・レーベルも持っていたジョージ・ウェインが1954年に始めたジャズの音楽祭である。


 映画のサイト、The Film Stage(20年8月14日号)にダニエル・イーガンが書いた記事をもとに映画化への道のりを紹介すると、スターンをフェスバルに招待したのは、音楽祭の支援者のひとり、ルイス・ロリラードの妻、エレイン・ロリラードだった。スターンは自分のキャリアを伸ばすため、映画作りに挑戦したかったようだ。


 最初はフェスティバルを背景にしたラブストーリーを撮ろうと考えたが、脚本やキャストの問題にぶつかり、監督として自身の力不足を痛感した。そこでミュージシャンたちのパフォーマンスを撮ろうと考えたようだ。


 スターンによると、「それまでのジャズ映画はモノクロ画面で撮られ、沈んだ雰囲気で、ナイトクラブの暗がりが中心だった。でも、私としては太陽の光の中でジャズを見せたかった」。



『真夏の夜のジャズ』(c)1960-2019 The Bert Stern Trust All Rights Reserved.


 スターン自身はジャズ・ファンだったわけではなく、登場するアーティストの中ではチコ・ハミルトンくらいしか知らなかったそうだ。そこで音楽監督をコロムビア・レコードのジョージ・アヴァキャンに依頼して、選曲を頼み、ハイクオリティのサウンドも実現した。撮影には5台のカメラを使い、足元やステージの脇にカメラを置いて、30フィート(約9メートル)の距離で撮り、テレフォトレンズを使って、スクリーンいっぱいに顔を写し出そうとした。


 また、音楽祭だけではなく、ヨットレース、アメリカズ・カップの様子もとらえ、ヨットや海の水面などの映像も取り入れた。音楽を聴く観客たちの姿も入る。今ではライブ映画で当然のように用いられている手法だが、当時としては斬新なものだった。


 編集を担当しているのはジョージ・アヴァキャンの弟、アラム・A・アヴァキャン(1926~1987)。CBSのドキュメンタリー・シリーズなどで編集者として経験を積んでいて、『真夏の夜のジャズ』の隠れた功績者と考えられている。資料によっては彼が共同監督としてクレジットされているが、これに関してスターンは意義を唱える。


 「確かにフィルムメイカーとしては彼が1番経験を積んでいたが、彼が監督だったわけではなく、この映画の90%は自分のものだ」と彼は生前、語っている。


 スターンはこの映画を完成後、60年代のファッション・モデル、ツィッギーの短編映画を撮っている。また、元写真家だったスタンリー・キューブリックの友人で、彼の依頼で『ロリータ』(62)のスー・リオンがハート形のメガネをかけている写真も手掛けた。写真家としてはマリリン・モンローが死の直前に残した「マリリン・モンロー 最後のポーズ バート・スターン写真集」(リブロポート刊)も彼の代表作として知られる。他界する2年前の11年には“Bert Stern: Original Madman”という彼をめぐるドキュメンタリー映画も作られている。


 一方、編集者のアヴァキャンは『奇跡の人』(62)などの名作にも参加。フランシス・フォード・コッポラ監督の『大人になれば』(66)の編集も担当し、『ゴッドファーザー』(72)の話も来ていたようだが、途中で降板となった。監督作としてはステイシー・キーチ主演の“End of the Road”(70)がロカルノ映画祭で評価され、『警官ギャング』(73)、『新おしゃれ泥棒』(74)は日本でも公開されている。


 『真夏の夜のジャズ』は写真界の才人と新鋭の編集者が組んだ作品になった。



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