消えることがない過去の遺産
私生活の問題はさておき、彼の過去の遺産はけっして消えることがないと思う。ウディ・アレンの代名詞ともいうべき作品が『アニー・ホール』(77)である。
主人公アルヴィーと恋人アニー・ホールの出会いと別れが描かれたホロ苦いラブストーリー。物語はすごくシンプルだが、見るたびに発見があり、以前は気づかなかったことにはっとさせられる。
日本で初めて上映されたのは1970年代だったが、当時のアレンは監督というよりコメディアンとしてのイメージが強かった。『スリーパー』(73)のように物語やキャラクターよりも、彼のギャグを見せることを目的に作られたパロディ映画が多く、ユダヤ人としてのアイデンティティを打ち出した彼のジョークは日本人には分かりにくく、「アレンの映画が東京で上映されると、観客は外国人ばかり」という冗談もあったようだ。
そんな彼がやっとこちら側に近づいてくれたのが、この『アニー・ホール』だった。この映画でアレンはコメディアンとしての枠を超え、映画監督として進化し、都会の男女の心の機微を描く監督としての基礎を築いた。
『アニー・ホール』予告
その年のアカデミー作品賞・監督賞・脚本賞(マーシャル・ブリックマン共作)・主演女優賞など4部門を受賞。この作品も含め、アカデミー脚本賞を3回受賞(候補は16回)のアレンだが、彼自身が主演男優賞候補になったのは、この映画だけである。
過去のアレン映画と異なる点は主にふたつある。まずは撮影監督に『ゴッドファーザー』(72)で知られる名撮影監督、ゴードン・ウィリスを起用したこと。当時、“プリンス・オブ・ダークネス(暗闇の王子)”と呼ばれていたウィリスは暗がりの撮影がうまかったが、そんな個性を持つ彼をアレンのようなコメディアンが起用することは異例のことだった。ウィリスとのコラボは大成功となり、ふたりのコンビは85年の『カイロの紫のバラ』まで続いた(その後はカルロ・ディ・パルマ、スヴィン・ニクヴィストなどヨーロッパの名撮影監督たちと組み、最近では『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(19)などのヴィットリオ・ストラーロが撮影を担当)。
もうひとつは女性の描写。今では女優を描くがうまい監督として知られるアレンだが、拙訳「ウディ・オン・アレン」(スティーグ・ビョークマン著、キネマ旬報社)によれば、「脚本を書き始めた頃、僕は男の視点からしか書けなかった。(中略)ところがいつの間にか、(中略)僕は女性の視点で執筆するようになった。(中略)僕の内面が変わった。(実生活で)精神分析を受けていることに関係があるかもしれないし、ダイアン(・キートン)との関係で変わったのかもしれない」とアレンは語る。
映像や女性へのこだわりを意識した最初の作品、それが『アニー・ホール』だった。他にも『ハンナとその姉妹』(86)、『アリス』(90)、『ブルー・ジャスミン』(13)など、ヒロインの名前をタイトルにした映画を手がけたアレンだが、『アニー・ホール』はその最初の1本となった。