アレンの人生哲学を反映した人物像
一組の男女の出会いと別れが綴られた作品で、ストーリーは特に目新しくもないが、その構成は斬新だった。物語を時系列的に並べるのではなく、細切れのエピソードを並べ、主人公アルヴィーの追想記のような形になっている(時系列を無視した構成は後に作られたラブストーリー『(500)日のサマー』(09)などにも引き継がれている)。
最初に登場するのはアレン自身。いきなりカメラに向かって話し始める――「実は恋人のアニーと別れてしまったんです。それで気持ちの整理がつかなくて。けっして落ち込むタイプの人間じゃないんですが」。そして、アルヴィーの失われた時間が語られる。まず登場するのは幼年期のエピソード。ニューヨークのコニー・アイランドの遊園地の近くにある庶民的なユダヤ系の家で育った、という話が語られる(コニー・アイランドは後の『女と男の観覧車』でも物語の舞台となっている)。
次に映し出されるのが小学校の教室でのエピソード。女の子にキスしたことをアルヴィーは教師にとがめられる。出てくる教師がこわい顔をしていて、学校嫌いを自認するアレンの思い出が託されている。
そんな幼年期について「いつも、どっぷり想像の世界に浸っていた。だから、現実と幻想の区別がつかなかった」とアルヴィーは語る。前述の「ウディ・オン・アレン」の中で、アレンはこのセリフには重要な意味があることを認めている――「これが僕の映画の大事なテーマになっている」
『ブルー・ジャスミン』予告
現実と幻想の区別がつかない。それは多くのアレン映画に登場する人物の特徴で、『カイロの紫のバラ』(85)、『ミッドナイト・イン・パリ』(11)、『ブルー・ジャスミン』(13)など、その後のアレンの代表作でも、現実と幻想の間で生きる人物の悲哀が描写される。
また、アルヴィーがアニーに書店で語るセリフには、彼の人生観が託されているのかもしれない。「僕の人生観は悲観的だ。世の中には“悲惨な人生”と“みじめな人生”がある。“悲惨な人生”はどうしようもない困難を背負っている。たとえば、目や体が不自由な人だ。彼らがどんな人生を送るのか想像もできない。“みじめな人生”はみんなが体験する。だから、僕たちはみじめな人生が選べたことに感謝しなくちゃ」
70年代に書かれたセリフゆえ、現代のポリティカリー・コレクトの観点から見ると問題あり、とも思えるセリフだが、一方、いかにも皮肉屋のアレンらしいセリフでもある(映画監督としてアメリカでは窮地に立たされた今、アレンはこのセリフの意味をどうとらえているのだろうか?)
アルヴィーがコメディアンという設定はアレン自身を思わせるし、途中に登場するテレビ番組や大学でのトークの映像は、アレン本人が出演した時の映像を使用している。また、アレンにもアルヴィー同様、2回の離婚歴があるし、アニー役のダイアン・キートンとは実生活で恋人同士だった。アレンはユダヤ系の出身、アニーはアングロサクソン系の出身という部分も、現実そのものだ。
また、アニーに「(テニスクラブで)シャワーを浴びたの?」と聞かれたアルヴィーは「僕は公共の場所ではけっしてシャワーを使わない。他の男性たちの前では裸にならないんだ」とアレンは答えるが、デイヴィッド・エヴァニアーが書いた評伝によれば、アレン自身も他の男性たちがいる場所では服を脱がない主義だという。
恋人たちが映画館の前で会う場面があり、そこではベルイマンの映画(『鏡の中の女』(76))が上映されているが、アレン自身もベルイマン映画のファンを自認している。
映画の後半には、アルヴィーたちがロサンゼルスを訪ねる場面が出てくるが、アルヴィー同様、アレンもロサンゼルスにいい印象を抱いていないことで知られている。
映画全体を見ると、アレンの私生活との共通点を思わせるセリフや場面が多く、それがこの映画の隠し味的なおもしろさとなっている。